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オリジナル小説「密造」NO.2
<2>ホテル
七時にセットした目覚まし時計よりも、三十分早く目覚めてしまった。昨夜の興奮がまだ冷
めていなかった。ベッドから降りた麻美は、ベランダのガラス戸を開けて大きな深呼吸をした。 早朝の晴れた空をしばらく眺めてから、冷蔵庫のフルーツジュースを取り出して、テーブルの 椅子に腰を下ろした。
二日酔いではなかったが、気のせいか頭が少しばかり重くて喉が渇く。コーヒーよりもジュー
スが飲みたくなって、グラス一杯分を喉に流し込んだ。それからトースターにパンを入れて朝食 をつくった。バターを塗ったトーストの上にスライスチーズとハムをのせ、勢いよくガブリとかじり ついた。そして二杯目のジュースをゴクリと飲んだ。
いつもなら病人のようにスローペースでのんびりと朝食を食べる麻美だが、今朝は別人のよ
うに活発に体を動かした。健太との再会によって高揚した気分が朝まで持続していた。勢い良 くトーストをがっついた麻美は、何故かおかしくなって噴き出してしまった。「まだまだ子供っぽく て純なとこがあるんだな」と、呟いてトーストの残りを頬張った。
ダーク・スーツを着用するので、普段は薄めの化粧で済ませるところだが、時間に余裕があ
った所為で時間をかけてしまった。明るめのパウダーと紅いリップ・スティックを使い、いつもよ り丹念にメイクをした。仕上がり具合に満足した麻美は、満面に笑みを浮かべながらマンション を出て行った。
地下鉄日比谷線に乗り込んだ麻美は、シートに座って昨夜受け取った健太の名刺をじっと見
やった。彼の会社は墨田区押上で、麻美が勤めている浅草橋の会社に近い。麻美の会社は 小さい生地屋で、その周辺には他にもアパレル関係の会社が集まっている。
三階建ての小さいビルの二階が麻美の仕事場だった。いつものように五人の同僚と挨拶を
交わしてから、九時ちょうどにデスクの前に腰を下ろした。伝票等をコンピュータに入力する作 業が主な仕事である。取引客が来社すれば、一階の展示室で接待することもある。三人の営 業の男性と簡単な打ち合わせをした麻美は、とりあえずコンピュータを起動させて、昨日の入 力の仕事の続きを始めた。
引き出しの中に仕舞った携帯電話のことが気になって仕方がなかった。もしかしたら昼休み
に健太が電話をかけてくるかもしれない。彼と電話で話をするとなると、昼休みは何処へ行け ばよいだろうか?コンピュータの入力をしながら麻美はそんなことを考えた。
待ちに待った昼休みの時間がやってきた。いつもなら同僚たちと一緒に近くの飲食店へ繰り
出すところだが、腹の具合が悪いと言って断った。そしてコンビニでサンドイッチとドリンクを買 い込み、柳橋の隅田川べりのベンチに腰を下ろした。
サンドイッチを手にした時、携帯電話の着信音がしたので慌てて携帯を耳にあてがった。
「麻美かい?」
「なんだ、お母さんか。どうしたのよ、こんな時間に」と、言って麻美がサンドイッチにかじりつい
た。
「明日の休みに、家へ帰ってきてほしいんだ。お父さんがそうしてくれって」
「やめてよ。またお見合いの話なんでしょ。絶対に嫌だからね」
「いつまで、そんな我がままを言ってるんだよ。今年、三十になっちゃうっていうのに」
「今年じゃなくて、来年じゃないの。まだ二十八なんだからね」
「そんなこと言ってるから、いつまでたっても結婚できないのよ」
「おあいにくさま。ちゃんと相手がみつかったんだから。お父さんにそう伝えておいて」
言うと同時に電話を切って、麻美は新しいサンドイッチの袋をはがした。健太からの電話だと
思って舞い上がったけれど、まったくのぬか喜びに終わった。
昼食を済ませた麻美は、しばらく隅田川の流れをぼんやりと眺めながら、自分の現状を考え
てみた。母親が心配するように、もうすぐ三十才に手が届く。なんとか二十代のうちに結婚した いと、自分でも思っている。健太が独身なら、彼と縒りを戻して結婚を前提にした交際ができ る。そうするしかない、と麻美は腹を決めた。
結局、昼休みに健太から電話はかかってこなかった。会社に戻った麻美は、気持ちを切り替
えてコンピュータの入力業務を再開した。四時半で終わるようにペースを配分しながら入力作 業に熱中した。ディスプレイに向かってキーボードを触ってさえいれば、コンピューターを繰作で きない上司は何も口出しをしない。それが分かっているので、最後の三十分は仕事をせずに 適当にキーボードを叩いて時間をつぶした。
五時に退社した麻美は、とりあえずマクドナルドへ入り、ハンバーガーとコーヒーを飲食して
時間をつぶした。そして次の行き先を考えながら浅草橋駅付近を当てなく歩いた。健太からの 電話をもう少しだけ待って、それから地下鉄に乗ることにした。
本屋に入って週刊誌を立ち読みしている時に着信音がしたので、携帯電話を手に持ったまま
外に飛び出た。
「麻美さん?」と、健太の声がした。
「健太さんでしょ。ずうっと電話待ってたの」
「今、何処にいるの?」
「浅草橋の駅の近く」
「それじゃあ、浅草で会おうか。三十分後に雷門の前でどうだろう?」
「それでいいわ。6時20分に雷門の前ね」
電話を切った麻美は、迷った挙句、地下鉄に乗って浅草に向かった。雷門までは十分もかか
らなかったが、とりあえず浅草へ行って時間をつぶすことにした。
駅のすぐそばに雷門がある。浅草橋と違って通行人も交通量も多く、夜になって繰り出してく
る連中が浮かれ気分で雷門の前を過ぎっていく。そうした人の流れをぼんやりと眺めながら、 麻美は健太が来るのをじっと待った。
母親と同じ年恰好の女性を目にした途端、昼休みの母親の電話の声が耳に蘇ってきた。もう
すぐ三十才になると、痛いところを突かれて閉口した。まだ二十八だと開き直ってみたものの、 本心では凄く気にしているのだ。二十四才までは、年齢のことをあまり考えたことがなかった。 二十五才を過ぎてからは、年を取るのが早く感じられるようになり、あっという間に三十前にな ってしまった。そんな弁解をしたって、親たちには通用しない。結婚する気のない我がまま娘の 単なる言い訳にしか聞えないのだろう。
健太と別れてから恋愛には消極的になってしまった。どんなに好きになっても、いつか必ず別
れが来ると思うと、どうしてもひっこみがちになってしまう。相手の誘いに応じてデートをすること はあっても、あえてそれ以上の関係にはならなかった。肌を許すことは女の最後の切り札だと 思うし、つかの間の恋と分かっていて安売りする気にはならなかった。それだけ大人になったと いうことなのだろう。
健太と知り合った時は、二十才そこそこの純心な娘で、それこそ全てを相手に委ねて恋愛に
のめりこんだ。初めての大人の恋だったので、全てが新鮮で楽しかった。それは健太にしても 同じで、うぶな男と女が恋に落ちて、ままごとのような日々を過ごした。今から思えば、実に刹 那的で危なっかしい関係だったし、破局を迎えたのは当然のことだった。
「待たせてごめん。あそこのレストランで何か食べようよ」
物思いにふけっていた麻美の顔をいきなり覗き込んで健太が言った。
「さっき、マクドでハンバーガー食べちゃったの」
「それじゃあ、軽いもの注文すればいいじゃん。とにかく入ろう」
そう言った健太が、自分一人で近くのレストランに向かってそそくさと歩き始めた。
昔のことを思い出して微笑した麻美が、慌ててその後を追いかけた。あの当時と何も変わっ
ていなかった。再会したばかりだが、互いの呼吸がぴったりと合っている。七年間、時計が止 まっていたかのように、麻美は自然に健太のペースに巻き込まれていった。
古くて小さいレストランに入った二人は、料理の他にビールを注文して、挨拶代わりに乾杯の
真似事をした。そして、どちらも照れ笑いをして決まりが悪そうに目をそらした。
「昨夜は、本当にびっくりしたよ。まさか、麻美ちゃん、いや、麻美さんに会うとは、夢にも思わ
なかったからさ」
「私だって同じだったわ。スターダストには時々通ってたけど、これまで一度も会わなかったでし
ょ。だから、驚いちゃった」
「あの店にはちょくちょく通ってるんだ。少し遅い時間なんで、会わなかったんだと思う。とにか
く、再会できたんだから、あの店に感謝しなくっちゃ」
「健太さん、ずいぶん大人になったな」ちらりと健太の顔を見て麻美が言った。
「麻美さんだって、前とはぜんぜん違って見える」
「二十八才になっちゃったんだもの。やめた、年の話は」苦笑して麻美が頭を振った。
「元気そうだから、安心したよ。気になってたんだ」
改まった態度で健太が言ったので、つられて麻美も構えてしまった。彼が何を言い出そうとし
ているのか、それを気にしながらグラスのビールに口を付けた。
「何の連絡もしないで気になってたなんて、信じてもらえないだろうけどさ。今さら連絡したって、
相手にされないと思ってたんだ。そうしているうちに、三十になっちまった。本当にあっという間 だったね」
うつむいたままで独り言のように言った健太が、ビールを飲み干してから「七年の間にいろん
なことがあった。短い時間じゃ、話し切れないくらいたくさんのことが」と、続けた。
「済んでしまったことは、どうでもいい。今の健太さんのことが知りたいの」
「そしたらさ、逆に質問してもいかな?」
正視して健太が切り出したので、麻美は素直に小さく頷いた。
「つまり、結婚したのかどうか、知りたいんだ」
いきなり健太が核心に触れたので、麻美は困惑して言葉を濁した。
「私のこと聞く前に、健太さんのこと話してよ」
「ずうっと独身なんだけど、一人だけ交際した女性がいたんだ」
意外な事実を知らされた麻美は、「そうだったの」と、だけ言って目を伏せた。
「その人とは三年前に別れたよ」
そう言って健太がメンソールの煙草を口にくわえた。
健太に恋人がいたことは確かにショックだったが、それよりも、今は独身だったことがうれし
かった。別れていた七年間に何があっても気にしないつもりだったので、すぐに頭を切りかえる ことが出来た。
そうした麻美の反応を健太は気にしながら二本目のビールを飲み始めた。
「結婚はしてないけれど、私にだって、いろんなことがあった」と、麻美は強がりを言って張り合
った。そして同じようにビールを口にした。
「何も無い方がおかしいよな。麻美さんのこと、男が放っておくわけないもん」
「今は誰とも付き合ってないわ」
「それを聞いて安心した。どうだろう。もう一度、やり直すこと出来ないかな?」と、単刀直入に
健太が切り出した。
そうなることを願っていた麻美だったが、心とは裏腹に困惑した表情で黙り込んでしまった。
「自分で言うのもなんだけど、昔と違って大人になったと思う。二度と悲しませるような真似はし
ない。今すぐ返事しなくていいから、ゆっくり考えてみてよ」
麻美が躊躇したので、その場を取り繕うように言って健太がグラスを持ち上げた。
そうした健太の反応を見て麻美は居たたまらなくなった。素直に本心をさらけ出してうれしそ
うに笑みを浮かべた。
「じゃあ、付き合ってくれるの?」半信半疑な顔で健太が問い掛けると、麻美は恥ずかしそうに
小さく頷いた。
「ありがとう。うれしいよ。なんていったらいいのか、最高の気分だな」
満面の笑みを浮かべた健太が、そう言ってグラスのビールを飲み干した。
なんとか思いが通じたので、どちらもうれしさを顔に出して黙々と飲食を続けた。
「これから、どうする?」食事を終えた健太が、ためらいながらも切り出した。
「健太さんと、一緒にいたいな」
思い切って麻美が意思表示をすると、健太は笑顔で頷いた。
「それじゃあ、散歩しながら考えることにしよう」
店を出た二人は、黙って夜の浅草を当てなく歩き始めた。一緒に寝泊りする場所を健太は決
めかねていたのだ。
「どうだろう。今夜はビジネスホテルにでも泊まらないか?」
「そうしましょうか」と、麻美は同意した。
どちらかのマンションへ行くよりも、そうした方が抵抗感は無いし、余計な気遣いをせずにリラ
ックスできる。
話を決めてほっとした健太は、麻美の歩調に合わせてゆっくりと歩き始めた。そして近くのビ
ジネスホテルに向かって黙って足を進めた。
そんな健太の背中に隠れるようにして、麻美はホテルの中へ入った。第三者の目には若夫
婦に映るはずだが、どうしても気が引けてしまう。
チェックインを済ませた二人は、フロントから逃げるようにしてエレベーターに乗り、そして五
階の部屋に駆け込んだ。
「思ったより広いな。眺めもいいじゃないか」と、言って健太が窓ガラスの前に立った。
「本当ね。浅草の夜景も、こうして見ると、けっこう素敵じゃない」
そう言って麻美も窓の前に立った。
「まだ、寝るには早いもんな」
「私、疲れちゃった。先にお風呂へ入っちゃおうかな」と、言って麻美がソファーに腰を下ろし
た。そして迷わずに浴衣を持ってバスルームへ入った。
今すぐにでも健太に抱かれたかったのだ。先に体を洗って浴衣に着替えれば、同じように彼
もシャワーを浴びるに違いないと、麻美は思ったのである。
ボディーシャンプーをたっぷりと使って全身を丹念に洗った。今まで気にも掛けなかったウエ
ストの贅肉がすこし気になった。七年前に比べればバストの張りもないし、ヒップも少し垂れ下 がっている。部屋の灯りが消えれば目立たないだろうと、麻美は開き直って浴衣姿でバスルー ムを出た。すると室内の蛍光灯が消えていて、浴衣を手に持った健太が、照れくさそうな顔で 入れ替わるようにしてバスルームへ入った。
薄明かりの部屋の窓から浅草の夜景がはっきりと見える。窓際に立った麻美は、幸福な気
分でしばらく夜景を眺めた。そんな麻美の背中をバスルームから出てきた健太が浴衣姿でや さしく抱きしめた。
そのままベッドに倒れこんだ二人は、七年間のブランクを埋めるかのように、延々とディープ
キスを続けてお互いの気持ちを確かめ合った。健太に若い時の性急さは無く、麻美を思いやり ながら、控え目にやさしく彼女の体に触れた。
麻美の上に体を重ねた健太は、キスをしながら彼女の胸を揉み続けた。そして片方の手で
何度も尻を揉み立てた。七年前の彼女の感触を思い出そうとしているみたいに、執拗にその 行為を繰り返した。待ちきれなくなった麻美が健太の股間に手を伸ばすと、何故か彼は腰を引 いてそれを制した。そして体をベッドに横たえ、天井に目を向けながら口を開いた。
「信じられないな。こうして麻美さんと同じベッドに並んでいるなんてさ。夢見ているみたいだ」
「私だって同じ」と麻美が呟いた。
「せっかく神様が巡り合わせてくれたって言うのに、俺には君と付き合う資格がないんだよ。悔
しいけれどさ」
「どうしてなの?」と、健太の胸に額を押し当てて麻美が尋ねた。
「俺の経営している会社、一ヶ月後には倒産しちゃうんだ。資金繰りがつかなくてさ。このままだ
と、三百万の手形が不渡りになっちまう」
そう言って健太が麻美の頭を撫でた。
「手形が不渡りになんなきゃ、会社はつぶれないの?」
「そう言う事だけど、他にも銀行に一千万円近い借金があって、存続させるのは、どっちにした
って厳しいんだ。君と再会できたって言うのに、情けない話だよ」と言って、健太が麻美を抱き しめた。
その夜、二人は抱き合うだけで、最後の一線を越えずに眠りについた。最初からそのつもり
だった健太が、無理して欲望をコントロールしたのだ。
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