オリジナル小説「密造」NO.7


<7>再出発



 四日後の土曜日、先日の外回りの時に下調べをした縫製屋の在庫品に手を出すことを決め
た麻美は、電話でその旨を伝えて健太の事務所を訪ねた。午後から二人で打ち合わせをして
いると、そこへ突然銀次郎も姿を見せた。
「お待たせしました。お約束どおりジャンパー代をお渡しします。総額、二百二十五万円でござ
いやす」と、ふざけて馬鹿丁寧な口調で言った銀次郎が、現金の入った二つの紙封筒を仰仰し
く健太に両手で手渡した。
「ありがとうこざいます」と、健太が満面に笑みを湛えて頭を下げた。
「銀次郎さん。本当にありがとう。感謝してます」と、麻美も一礼した。
「とにかく、がんばってくれよな。絶対なんとかなるって。気合を入れていこうじゃないの。がんば
ろうぜ!」
 そう言ってガッツポーズをした銀次郎が、麻美に目配せをして事務所を出て行った。 
MA1のジャンパー代と十万円弱の刺繍代とその他の経費を差し引いた利益は、百二十万円
ということになる。岩崎縫製の在庫を現金問屋で処分した時の利益が二十二万円なので、合
計で百四十二万円を稼いだことになる。それに麻美が用立てた百万円を足すと、二百四十二
万円が健太の資金繰りに使える金になる。三百万円の手形を決済するためには、残りが五十
八万円ということだ。
「本当に信じられないよ。なんか夢を見てるみたいだな」
 そう言った健太が、封筒から出した一万円札を興奮しながら数え始めた。
「みんな銀次郎さんのお陰ね。残りのお金は、なんとしても二人で力を合わせて捻出しなくっち
ゃ。健太さん、がばりましょうね!」
 金勘定に夢中になった健太は、そんな麻美の叱咤に黙って頷いた。
「残りは約六十万ということか。ここまでくれば、なんとしてでも手形を落とさなきゃな。銀次郎さ
んにも確かに世話になったけれど、なんと言ったって君の助けが一番だ。感謝してるからね」
 紙幣を封筒にしまい込んだ健太が、麻美の顔を見ながらしみじみと言った。
「まだ六十万円も残ってるんだから、気を緩めないでがんばりましょう」
「麻美ちゃんの言うとおりだ。ちょっとばかり返済の目処がついたもんだから浮かれちゃって
さ。情けないったらありゃしないよ」と、健太が自嘲した。
「さっきの話の続きなんだけど、この前みたいに一種類の数が多すぎるのは、現金問屋にすれ
ば売りにくいのかもしれないわね。店頭に出せる数は限られてるから、残りは在庫として倉庫
に積んでおかなきゃならないでしょう」
「確かにそうだな。すぐに現金化できないものは、それだけ価値が低いってことだ」
「現金問屋が一番喜ぶのは、数が少なくって、種類がたくさんある場合じゃないかしら」
「間違いないよ。どの業界だって、数が少なくて型数が多い方が売りやすいからな」
「たから、前回と同じように四百五十着を卸すにしても、型数を十種類以上にすれば、一着の
単価が高くなると思うの」
「そこまで考えるなんて、たいしたもんだわ。なんか、本物のバッタ屋みたいだせ」
「そのかわり手間はかかるけどさ」
「それは仕方ない。金を稼ぐためなんだからさ」
「そしたら出発しましょう!」
 自分に発破をかけた麻美は、健太を促して勢い良く椅子から立ち上がった。
 先日、外回りをした時に、得意先の在庫の状態を下調べしておいた。その中に、たくさんの
種類の衣料品を抱え込んでいる縫製屋があった。その縫製工場を二人は車で訪ねることにし
たのだ。
 バッタ屋に成りきるために、健太は黒のスーツを身につけた。そうした方が相手を威圧するこ
とができると、彼なりに策を立てたのだ。
「バッタ屋の仕事をする時は、銀次郎さんみたいに鬼にならなくっちゃ。一円でも安く仕入れな
いとね」と、麻美が健太に発破を掛けた。
「もちろん、そのつもりだ。こっちだって首がかかってるんだからな」
「いつもいつも銀次郎さんに助けてもらうことできないから、今回は二人だけでがんばりましょ
う」
 健太の運転する車は、すぐにJR錦糸町の近くの細谷縫製の前に到着した。塀に囲まれた小
さい門構えの中に工場がある。敷地内に車を停め、二人は外へ降り立った。そして小さいプレ
ハブの事務室に足を進めた。
「お邪魔します」と言って麻美が中に入った。
「毎度!もしかしたら、先日の在庫の件かい?」
 立って仕事をしていた六十前の小柄な社長が、麻美の姿を認めてそう言った。
「知り合いが、どうしても紹介してほしいって言うもんで」
「後ろの人がそうかい?」
「そうなんです。高橋さんていうんです」
「遠慮しないで、どうぞ入って下さいな」と、社長が健太を促した。
「失礼いたします。お忙しいところ申し訳ありません」
「最初に断っておきますけど、うちの在庫は、まとまった数がないものばかりなんですよ。逆に
種類はいっぱいあるんですがね。その所為か、他のバッタ屋には敬遠されるんです。それでも
構わないんですか?」と、社長が念を押した。
「承知しております」
「それならいいんです。そじゃあ、倉庫へ案内しましょう」
「私も一緒に行っていいですか?」麻美が尋ねると、社長は黙って頷いた。
 事務所と同じプレハブの倉庫の中には、段ボール箱が目一杯積んであった。その中からピッ
クアップした箱を社長が健太の足元に並べた。
「これからのシーズン商品なんだけど、みんな一箱しかないんですよ。ニットのカットソーが多く
て、中にはブラウスやジャケットも混じってます。サイズはほとんどMですね」と、社長が説明し
た。
 箱を開けて健太が製品のチェックを始めた。どの箱にも違う製品が詰め込んであり、中には
二種類のものが混じっている箱もあった。検品する振りをして全部の箱に目を通した健太は、
しばらく黙って思案をした。専門的な知識が無いので、大雑把な値段の違いは分かっても、微
妙な値段の違いや小売店価格などは皆目見当がつかない。十六箱に五百弱の製品が詰め込
んである。困惑した健太は、社長の反応を気にしながら苦し紛れに口を開いた。
「全部で十万にしてもらえないですかね?」
「十万ですか?」と、社長が少し不満そうな顔をした。
「高いものもあるんですけど、安いものも多いんでね」
 緊張しながらも意識的にビジネスライクな口調で健太が説明した。
「そうですか。じゃあ、それでお願いします」と、社長が頷いた。
 してやったりと思ったが、顔には出さずに健太は無表情でフッと小さいため息をついた。そし
て紙封筒から十万円を取り出して社長に手渡した。急いで外に出た健太は、車を倉庫の前に
止め、社長と二人で段ボール箱を積み込んだ。
「また何か出物があったら、彼女に伝えてください。ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げた健太は、麻美を促して車に乗り込んだ。そして満悦した顔でゆっくりと車を
発車させた。
「専門知識が無いだろう。あんなたくさんの種類があったら、値段のつけようがないよ。だもん
で、まとめて十万て言っちゃったんだ」
「その方が、結果的には良かったりしてね。けっこう高そうなものも混じってたでしょう」
「全部で五百着としても、1着が二百円の計算になるから妥当な線じゃないかと思ってさ」
「なかなか堂に入ってたわよ。本物のバッタ屋みたいだった」
「銀次郎さんみたいな凄みがないんで、正直言って内心は冷や冷やだったよ」
「安くで仕入れても、高く売らなきゃ意味ないもんね。さあ、これからが本番みたいなものだか
ら、がんばりましょう」と、言って麻美が厳しい顔付きをした。
 車が両国橋を渡って隅田川を越えると、二人はどちらも口を閉じてしまった。馬喰横山の現
金問屋「亀八の店」の少し手前に一旦車を停め、前回と同じように麻美が店内に入っていっ
た。いつもの店員に用件を伝えると、商売人の笑顔で車の方へ近寄った。
 麻美と入れ替わった健太が、愛想笑いをしながら車の外に出た。そして後ろに積んだ段ボ
ール箱を下ろし始めた。
「今回はいろんなものが入ってます。一箱ごとに分けてあるんですよ。ニット製品だけじゃなく、
ブラウスやジャケットも入ってますから」
「ジャケットもあるのか。それはありがたいね。そしたら台車で事務室へ運ぶことにするか」
 店の台車に箱を積み込んだ二人は、ゆっくりと店内の奥に箱を移動させた。いつでも車を動
かせるように、麻美は運転席に座って健太が戻ってくるのを待つことにした。 
 今回は製品の種類が多いので時間がかかった。三十分後、二箱を抱えて健太が戻ってき
た。
「この二箱は買ってもらえなかったの?」と、車の外に降りた麻美が問い掛けた。
「そうなんだ。二箱だけ返品になったんだ。有名なメーカーの製品なんで、この店じゃ販売でき
ないらしい。詳しいことは車の中で」
 そう言って車内に乗り込んだ健太が、押上に向かって車を発車させた。
「全部で二十八万円になった。だから利益は十八万円だな」
「前よりちょっと少ないのね。がっかりしちゃったな」
「仕方ないさ。十八万なら御の字だと思うよ」
「確かにそうよね。これが借金の返済じゃなくて純粋な利益だったら、かなりの金額だもんね」
「それを言われると辛いんだな。君には本当に迷惑をかけちまった。残念だけど、今の僕には
それしか言いようが無い」と、健太が心苦しそうに言った。
「ごめんなさい。傷つけるようなこと言っちゃって。それより、今夜、六本木でお酒を飲まない?
とりあえず、手形の件は目処がついたんで、それを祝って乾杯するの」
「そうだな。これまでの麻美ちゃんの労をねぎらって、久し振りにスターダストで飲むことにする
か」
「ある程度の目処がついたら、そうしようって前から考えてた。なんか思い切り酔っ払ってみたく
なっちゃったの」
 押上の事務所に戻った麻美は、返品になったブラウスを1着だけ箱から取り出した。
「それじゃあ七時にスターダストで待ってるわね。ちょっと買い物とかしたいんで、駅までは歩い
ていきます」
 そう言った麻美は、健太に笑顔で手を振って事務所を出た。その足で銀次郎の所へ行くつも
りだったのだ。途中で足を止めた麻美は、念のために携帯で銀次郎に電話をかけた。
「麻美です。銀次郎さんにお礼を言いたくて、電話したんです。今からお邪魔してもいいでしょう
か?」
「そんなご丁寧なことしなくたっていいんだよ。どうってことないんだからさ」
「たいしたことないんですけど、お礼の印しをお渡ししたいんです」
「お礼の印しなんていらないよ。それよか、麻美ちゃんの元気な声を聞かせてもらえば、それで
充分さ」
「お邪魔したらまずいんでしょうか?」
「そんなこと言ってないさ。わざわざ足を運ぶ必要は無いのにと思ってさ。来てくれるんだったら
大歓迎だよ」
「それじゃあ、十五分くらいでお伺いします」
 そう言って電話を切った麻美は、近くのコンビニでウィスキーのボトルを買い、タクシーに乗っ
て本所の銀次郎の事務所に向かった。なんとしても彼に感謝の気持ちを伝えたかった。それ
だけでなく、差し迫った問題や悩みを相談したかったのだ。
「済みません。面倒ばかりかけちゃって」しゃちこばって言った麻美が、伏目がちに事務所の中
へ足を踏み入れた。
「そんな堅苦しい挨拶は止めとくれよ。こんなチョイ悪オヤジの所へ、麻美ちゃんみたいな若い
女性が出入りしてくれるのは、願ってもないことさ。ありがたい話だよ、まったく」
 ソファーに対座した銀次郎が、いきなりとぼけたことを言って麻美を笑わせた。
「そんな若くないんです。もうすぐ三十になるんですよ」
「それでも、俺に比べりゃ、はるかに若いじゃんか。まだまだ子供みたいなもんだ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえば、俄然やる気が出ますよ。これは、お礼の印しなん
ですけど」と、言って麻美が箱に入ったウィスキーのボトルを差し出した。
「せっかくのココロザシを無にすることもできないんで、今回だけは、ありがたく頂戴しておくよ」
 冷めた言葉とは裏腹な心底からの笑みを浮かべ、銀次郎がうれしそうにウィスキーの箱を持
ち上げた。
「何から何まで、面倒をかけちゃいました。お陰で、なんとか手形の危機は乗り越えられそうで
す」
「そりゃあ、よかったな。俺みたいな人間が、人様の手助け出来るなんて、本当に夢見たいな
話だわ」 
「もう一つだけ、教えてもらいたいことがあるんです。このブラウスは、有名なメーカーのものだ
そうで、小売店からはキャンセルされたんです。こんな場合はどうしたらいいんですか?」と、麻
美がブラウスを差し出した。
「確かに大手のメーカーもんだな。どうしても売りたいんだったらさ、襟首に縫い付けてあるメー
カーの織ネームをはがして、別の織ネームを縫い付けるんだ。そうしてカムフラージュするんだ
よ。そんな時のためにストックしてある織ネームがうちにあるから、それを使えばいい」
 言うと同時に立ち上がった銀次郎が、巻きつけた織ネームの束を机の引出しから取り出して
テーブルの上に置いた。
「ちょうど百枚あるから、持っていきなよ。替りにこれを縫い付けりゃ、どこのメーカーか分から
なくなる。この織ネームのシルバースタジオっていうのは、俺の名前からとったんだ。織ネーム
さえ替えておきゃ、有名なメーカーの商品だって、安心して売れるんでね」
「もらってもいいんですか?」
「まだ三千枚残ってるから、心配しないでくれ」
「それじゃあ、遠慮なく」と、麻美が満面の笑みを浮かべて受け取った。
「足りなくなった時は、また声をかけてくれ。しかし、麻美ちゃんがバッタ屋をやるなんて、夢にも
思わなかったな。これも何かの縁だと思って、面倒みるからさ」
 そうした銀次郎の言葉に深く感じ入った麻美は、しばらく言葉をなくして目を伏せた。
「一千万円の借金を返すのって、大変なんでしょうね?」と、一番聞きたかったことを口にした。
「確かに、厳しいよな。俺が麻美ちゃんだったとしたら、御免をこうむるね」
「なんとかなるような気がするんですけどね」
「なんとかなるんだったら、既に高橋君が返済してるじゃないか。どうにもならないから、いつま
でも借金が残ってるんだ」
「彼と一緒になりたいんです」と、向きになって麻美が健太に対する思いを口にした。
「覚悟はできてるんだな?」
「そのつもりです」
「死ぬほど好きなんだったら反対はしないさ。もしも中途半端な気持ちだったら、止めた方がい
いね。破綻するのは目に見えている。わざわざそんな苦労することはないんだ」
 痛いところを突かれた麻美は、困惑した顔付きでうつむいた。健太に対する愛情がどの程度
のものなのか、自分でも計りかねていた。好きには違いなかったが、死ぬほど好きだとはまだ
思っていない。
「どうしたんだ?迷っているみたいだな」
「死ぬほど好きって、どういうことなんです?」
「相手のためなら、死んでもいいってことさ」
「そこまでは思ってないような気がするんです」
「それじゃあ結論は急ぐことないんじゃないの。もう少し考えてから決めればいいさ。今後の長
い人生がかかっているんだからな。男と女のことは、焦ったらロクなことになりゃしねェ。例え心
を決めたとしても、それを口に出すのは、遅いにこしたことないんだ」と、腕組をした銀次郎が
諭すように言った。
「そうします。参考になりました。ありがとうございます」
「差し出がましいこと言っちまったけどさ。麻美ちゃんが本当の妹みたいに思えてならないん
だ。これからも力になるつもりだから、がんばってくれよ」
「お邪魔しました。お仕事の邪魔になるといけないんで、この辺で失礼します」
 銀次郎が腰を浮かしたので、それに合わせて麻美も立ち上がった。そして心残りな顔付きで
頭を下げて外へ出た。
「あんまり無理するんじゃねェぞ!バッタ屋の仕事も、なめてかかったら痛い目にあうから、ほ
どほどにしとけよ」
 外に向かって銀次郎が声を掛けたので、麻美は振り返って子供のように大きく頷いた。
「死ぬほど好きならば」と、言う銀次郎の言葉がいつまでも耳に残った。「相手のためなら死ん
でもいいってことさ」と、彼は言ったけれど、そんな辛い恋ならしない方がいいと麻美は思う。幸
せになりたくて女は恋をするのである。自分の人生を犠牲にしなければならない結婚なんて、
絶対にしたくない。どんなに健太を好きであっても、結婚すれば彼の借金を一緒に背負うことに
なる。苦労を承知で敢えて結婚する気にはならない、というのが今のところの正直な気持ちだ
った。銀次郎が言うように、焦らずにもう少し成り行きを見守るしかない、と麻美は当面する問
題に一応の結論を出した。


 地下鉄で中目黒に戻った麻美は、途中の中華料理店で八宝菜を食べてからマンションに帰
った。そして着ていたカーゴパンツを脱いでジーンズにはきかえ、上にジャケットを着て部屋を
出た。六時になったばかりで時間の余裕があるので、早めにスターダストへ行って一人で酒を
飲むことにした。
 地下鉄の日比谷線で三つ目が六本木になる。心構えをする間もなく地下鉄は六本木に到着
した。いつもなら浅草橋から地下鉄に乗り込むので、六本木に着くまでには三十分程度かか
る。その間に都心の繁華街へ繰り出す心の準備をするのだが。
 今夜、健太を六本木に誘ったのは、今後の二人の関係を見直すことが目的だった。手形の
決済をした時点で、今後の二人のことを話し合ってみようと前から考えていたのだ。まだ決済
はしていないが、ある程度の目処が立ったので実行に移したのだ。
 六本木交差点に立つと、頭上を走る高速道路からとめどなく車の轟音が流れてきた。華やか
な洋服に身を包んだ男と女が交差点を埋め尽くしている。その中に混じって麻美は乃木坂の
方に足を進めた。
 半月前、七年振りに六本木のスターダストの前で健太と再会した。それから麻美の生活がこ
ろりと変わってしまった。健太の借金を返済するために右往左往する日々が続いている。健太
と再会できたことはうれしいが、彼の借金は正直言って重荷である。だからといって、今すぐ別
れることは考えていない。ここで手を引けば、おそらく一生後悔するに違いない。できればこの
まま二人で借金を減らし続け、ある程度の額を減らした時点で、結婚を考えても遅くないと思
う。銀次郎が言ったように、結論を急がないで焦らずに対処するしかない、と麻美も思うのだっ
た。

 七時二十分前にスターダストへ到着した。いつもの窓際のボックス席が空いていたので、麻
美はそこに腰を下ろして、とりあえずビールとおつまみのソーセージを注文した。健太が来てか
ら本腰を入れて酒を飲むつもりだった。
 この店で健太と再会した夜のことを思い出しながら、ちびりちびりと麻美はビールを飲み始め
た。あれからまだ半月しか過ぎていないのだが、随分と長く感じられる。その間にいろいろな出
来事があり、彼女自身も大きく成長した。いつまでも大人になりきれなかった麻美が、一度に
大人になってしまった。健太の借金を一緒に返済することによって、社会の厳しさを肌で実感
し、それに正面から立ち向かう日々が続いているからだ。
 今夜は聞き役に徹して、健太の胸の内を探ることにした。いったい彼が自分に何を求めてい
るのか、彼の本心を知りたかった。単に借金返済のためのパートナーなのか、それともこれか
らの人生を共に生きる相手として考えてくれているのか。
 約束の七時を過ぎても健太は姿を見せなかった。注文したビールを飲み干してしまった麻美
は、間が持てなくなってそわそわし始めた。何かの都合で遅くなる場合は、必ず携帯に電話が
かかってくるはずだ。自分に言い聞かせた麻美は、もう少し様子を見ることにして店の音楽に
耳を傾けた。
 七時十五分過ぎに店のドアが勢い良く開いた。健太かもしれないと思った麻美がドアの方に
目を向けると、そこに立っていたのは意外な人物であった。イタリア風の渋いスーツを着た銀
次郎が、店内の麻美を見つけて「お待たせ!」と声を掛けた。
「銀次郎さん!どうしてここへ?」
 呆気に取られた麻美が立ち上がって問い掛けた。
「ここで七時に合うって約束したじゃないか」
「何言ってるんですか!冗談はやめて下さいよ」
「まあ、いいじゃねェか。そんなに向きになりなさんな。今夜は無礼講なんだからさ。ちょっと待
っとくれ」
 そう言って顔を崩した銀次郎が、ドアを押して外に声を掛けた。するとにやけながら健太が店
内に入って麻美の前に対峙した。
「ごめんよ。麻美ちゃんを驚かしてやろうと思ってさ」と、上機嫌で健太が話した。
「本当に驚いちゃったわ。まさか銀次郎さんが来るなんて、夢にも思わなかったんだもの」
 不服そうに唇を尖らせた麻美が、席に着いた二人を交互に見てそう言った。
「詳しい説明は改めてするけど、銀次郎さんと相談して、僕の会社を倒産させることにしたん
だ。前から考えてたことなんだけど、どうしても思い切れなくてさ。そのことについて銀次郎さん
と話し合って、そして結論を出したんだ。これ以上君に迷惑をかけられない。裸になって一から
やり直すよ」
 吹っ切れた顔で言った健太は、店員に指示してキープしてあるウィスキーのボトルをテーブル
に運ばせた。
「麻美ちゃんが帰った後に、高橋くんが訪ねて来たんだ。いろいろ話し合ってさ、そういう結論
に達したんだ。俺もそれが一番いいと思うよ」
「いきなり銀次郎さんに怒られちゃってさ。いつまで麻美ちゃんを苦しめるんだって。本当に情
けない男だって、自分でも思った」
「せっかく苦労してバッタ屋で金を稼いだんだから、それを新しい仕事の元手にした方がいいと
思うんだ。借金の返済に回すのは止めてさ。そういうことだったら、ある程度の金が貯まるまで
俺も協力する。倒産に関しては、知り合いの弁護士を紹介してやるから」
「そんな訳で、今の会社は倒産させることにしたんだ。余計な心配かけて済まなかった」と、言
って健太が大きく頭を下げた。
 不測の事態に困惑した麻美は、黙ったままで二人の話に耳を傾けた。会社を倒産させること
の意味やメリットなどは把握できないが、健太の表情から陰りが消えたことは感じ取れた。そ
れだけ会社の借金が重荷になっていたのだろう。心の中にわだかまっていたものが発散して、
気持ちがさっぱりとしたに違いない、と麻美は思った。 
「仕事の話はそこまでにしてさ、今夜は思い切り飲もうじゃないの」
 そう言って三人のグラスに氷を入れた銀次郎が、目一杯ウィスキーを注ぎ込んだ。
「こんなにたくさん、飲めないですよ!」
 濃い目の琥珀色になったグラスを持ち上げた麻美が、目を丸くして頭を振った。
「大丈夫、飲めるって。とにかく今夜はあんたたち二人のお祝いの日なんだからさ」と、銀次郎
が満面の笑みを浮かべて言った。
「今夜は思い切り酔っ払いたいって、言ったじゃないか」と、健太も同調した。
「そうかい。それじあ、飲んでもらわないとな。今夜はなんとしても麻美ちゃんを酔わすんだ。こ
りゃあ、面白くなってきたぞ。意識がなくなったら、ちゃんと健太くんが家まで送ってくれるから
さ」
「やめて下さいよ。本当に意地悪なんだから」と、満更でもない様子で麻美が言い返した。
 そうした麻美の反応を見て、健太は腹の底からの笑い声をあげた。
「それじゃあ、乾杯しようぜ。二人の幸福を祝ってカンパイ!」
 銀次郎の音頭に合わせて、三人は笑顔でグラスを打ち当てた。
「本当に良かった。これで麻美ちゃんも幸せになれる。義理の兄貴としては、最高の気分だ。な
んちゃってね」
「ありがとうございます。みんな銀次郎さんのお陰です」
「好きな者同士が、借金のために一緒になれないなんて、絶対おかしいさ。今回の高橋くんの
判断は間違ってない」
「そう言ってもらえば、心強いです」と、健太が頭を下げた。
 そんな二人のやり取りを聞きながら、麻美も幸せな気分でウィスキーを口に含んだ。
「二人の邪魔をしちゃいけないんで、俺はすぐに失礼するよ。久し振りの六本木だから、顔なじ
みの店に行こうと思ってさ」と、言った銀次郎が豪快にウィスキーを口に含んだ。
「そんなこと言わずに、もう少し一緒に飲みましょうよ」
「そこまで野暮じゃないさ。後は二人っきりで和気あいあいとやってちょうだい。俺はこれで失礼
する。二人ともがんばるんだぞ。応援するからさ」
 麻美の手を握り締めて銀次郎が立ち上がった。
「本当にありがとうございました。おっしゃる通りに全力でぶち当たります」
 同時に立ち上がった健太が、深々と頭を下げて銀次郎を見送った。そしてほっとした顔で椅
子に座り直した。
「絶対になんとかしてみせる。これ以上は迷惑かけないから安心してくれ」
 そう言った健太が、麻美の顔を見詰めながらこれまでの経緯を説明した。
 六本木へ来る前に、健太も銀次郎の事務所を訪ねたのである。会社の実情や銀行の借金
について正直に話すと、いっそ一からやり直した方が早いと言って倒産することを銀次郎が勧
めた。その場合は、彼の知り合いの弁護士が倒産に関する法的な処理をしてくれるということ
だった。それで健太は倒産を決意したのだ。
 倒産後の仕事も銀次郎が面倒みてくれることになった。軽井沢銀座の店舗を借りて、五月か
ら十月の半年間だけ洋品店を開く段取りをつけてくれたのだ。店の商品も全部彼が用意する
ことになった。二階が住居になった店舗の借り賃は半年で二百万円で、その間に五百万円の
純利益が出せると銀次郎は試算した。住まいを東京から軽井沢に移せば、倒産後のトラブル
も回避することができるので、健太は即座に決意したのだ。
「そうだったの。それなら安心ね」
 説明を聞いた麻美は、ほっと胸を撫で下ろして微笑んだ。倒産することに関しては気がかり
だったが、不安を吹っ切ったような健太の表情や口振りが彼女を安堵させた。
「半年間、洋品店のオヤジになってがんばってみるよ。それから今後のことを考えても遅くない
と思うんだ。麻美ちゃんが用立ててくれたお金は分割にして返すから、少しだけ待ってほしいん
だ。それでいいだろうか?」
「どうして、そんなこと心配するの?あれは健太さんに投資したお金なんだから、気にしないで
よ」
 健太の他人行儀な物言いに対して、麻美は不服そうな顔をした。そして目を閉じながらウィス
キーをゴクリと飲み込んだ。
「けじめだけは、付けておいた方がいいんじゃないかと思ってさ」
「それじゃあね、一ヶ月に一万円だけ返してもらうわ。それ以上は絶対に受け取らないからね」
と、酔った勢いで麻美が意味深なことを言った。
「本当にそれでいいのかい?返済するのに十年近くかかるってことだぜ。ずうっとこのまま付き
合ってくれるってことなの?」
 麻美の言葉の真意を計りかねた健太は、ここぞとばかりに思い切って彼女の気持ちを尋ね
た。
「もちろん、そのつもりだわ。十年だって、二十年だって」と、麻美は気恥ずかしそうにグラスを
見詰めながら返答した。
「麻美ちゃんの気持ちは良く分かった。それじゃあ、今の言葉を信じて、ずうっとお金は預かっ
ておくからね」  
 真剣な顔付きで健太が唇をかみ締めた。もっとはっきりと自分の方からプロポーズをしたか
ったのだが、今夜はそこまで言うのが精一杯だった。そうした健太の気持ちを麻美は理解して
いた。不安定な今の彼の立場で求婚するのは土台無理な話である、と彼女も思うのだった。
 金にかこつけて麻美は自分の気持ちを正直に伝えた。そうすることで、結果として彼の本心
も知ることができた。それで麻美は充分に満足だった。
「こんなに強い水割りを飲んだの、今夜初めてでしょ。なんか酔っぱらってきちゃったみたい」
と、照れくさそうに麻美が呟いた。
「あんまり無理しない方がいいね。今夜はここまでにした方がいいんじゃないの」
「そうしようかな。この程度だったら、地下鉄に乗って家に帰れるもんね」
「僕はもう少しここで飲んでるからさ。一人でいろんなこと考えたいんだ。悪いけどさ」
「私も同じなの。一人になっていろんなこと考えたいの。これから、健太さんと長い長い付き合
いが始まることになったでしょ。だから、心の準備をしなくちゃならないし」
 そう言って腰を上げた麻美が、少しおぼつかない足取りでドアの方へ歩いた。
「地下鉄に乗れないんだったら、タクシーで帰ったらどうだい」
「だいじょうぶ。心配しないで。それじゃあ」 
 ドアの外へ出た麻美は、夢見心地で六本木に向かって足を進めた。あくまで受身な物言いだ
ったが、それでも健太は明確に結婚の意思表示をしてくれた。再会してからは、結婚のことを
棚に上げて、借金返済のために一心同体の夫婦のように行動した。そうした共同作業が、二
人の心をしっかりと結び付けてくれたのだ。
 半月前は、酔った振りをして六本木駅まで歩いた麻美だったが、今夜は本当に酔っぱらって
いるのが自分でも分かった。すれ違う誰にでも声を掛けたくなってしまう。自分が幸せだという
ことを、皆に知らせたくて仕方が無い。
 前方から近寄ってきた若いカップルに「よっ、お二人さん、お幸せに!」と、銀次郎を真似て
麻美が声を掛けた。それは自分に対して投げかけた言葉でもあった。健太と二人で絶対に幸
せになってみせると、自分に言い聞かせて麻美はカップルとすれ違っていったのだ。


終わり



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