「北海道のエホバの証人2世のホーム・ページ」
管理者・宮内健次の遍歴



 私は、「エホバの証人」の子供として育てられた者です。私が3歳の時に両親が離婚し、私と妹は母に引き取られたのですが、その直前に母がエホバの証人の訪問を受けて家庭聖書研究をするようになったのがきっかけです。それから、私たちも信仰継承の一環として研究司会者の家族と一緒に「わたしの聖書物語の本」で教義を教え込まれるようになったのです。私が5歳の時、母はバプテスマを受け正式にエホバの証人として活動するようになりました。私も中学校2年の春から「バプテスマを受けていない伝道者」として活動していました。しかし、それは自らの信仰で活動していたのではなく、同い年の子供たちが私よりも先に「進歩」していったため遅れまいと焦って伝道者になったようなものでした。
 母がエホバの証人の活動に関わるようになるにつれ、私の生活環境も大幅に変わりました。まず、サタンの悪影響を受けるからとのことでテレビが処分されました。これまで見ることのできた「おかあさんといっしょ」や「ドラえもん」などの番組が見られなくなり、物足りなく寂しい思いをしたのを覚えています。近所の信者の家に遊びに行き、テレビが点いているとかぶりついて見ていたものです。もちろん、ファミコンなどはありません。また、私が小学校3年の時、地方から遊びに来た祖父とコンビニエンスストアへ買い物に行った時、老爺心で我々兄妹に「コロコロコミック」と「コミックボンボン」を買ってくれたものの、母が私たちからそれを取り上げ、返品してしまったということもありました。さらに、絶えずエホバの証人の書籍の英語直訳日本語によって宗教教育を受け、信者の子供たちとしか接しないので、私たちが使う言葉も通常の日本語とは違うものになります。このように、一般的な子供たちとは全く異質の文化・環境・常識で生活し、「ずれた子供」として育てられたのです。
 ですから、小学校に入学するとその環境の違いが露わになってくるのです。私は「エホバの証人の子供」としての顔と「一般人らしい子供」としての顔を使い分けるだけの余裕も文化もなかったので、クラスでは孤立し、仲間外れやからかいなどいじめの格好の対象になりました。
 エホバの証人の子供は、学校で「証言」するよう求められます。すなわち、学校の中でエホバの証人として信仰を表明するよう求められるのです。親から押しつけられた信仰でありますから、この要求は非常に憂鬱にさせるものでした。小学校6年生になると、運動会で「騎馬戦」が行われます。騎馬戦は「戦争」に関わるものであるとエホバの証人は見ているため、エホバの証人の子供たちはそれに参加することを認められていません。そのことを担任の先生に説明しなければならないのですが、親から押しつけられた信仰で嫌々活動しているという状態なので、うまく説明できません。教科書の丸暗記の如く「エホバの証人では戦いがだめだと言っているので騎馬戦はできません」と一気にしゃべるだけで精一杯でした。結局、親の力を借りて参加を免除してもらいました。
 さらに、中学校に入ると体育の授業で柔道が行われます。私の行っていた中学校は柔道とダンスの選択制だったので一見問題ないように見えるのですが、大抵、大多数の男子は柔道を選び、女子はダンスを選ぶので、女子だらけの中で授業を受けるというは、思春期の男子にとって非常に恥ずかしいもので、できるだけ避けたいものなのです。私の学年にはエホバの証人の子供が私を含め5人おり、しかも各クラスに分散していました。もし柔道を選べば、エホバの証人の子供から親に報告され、そして私の親か会衆の長老に通報されます。ダンスを選んだら周りの冷たい視線に耐えなければなりません。この葛藤に苦しみ、教科担任に相談しましたが、「それは君が決める問題だ」と突き放されました。結局、2クラス合同で行う体育の授業でもう1人同じ男子生徒がおり、「仲間がいる」ということでダンスを選びました。体育館の後ろで柔道をしている男子の視線と「異質なもの」に対する女子の冷ややかな視線を感じながら授業を受けるのは非常に恥ずかしく、常に精神的に緊張させられるものでした。
 やがて中学校3年になり、志望校を決めなければならなくなります。担任の先生から成績に見合った高校を勧められましたが、柔道の授業がない札幌市立の昼間定時制高校を受験することになりました。全日制より1年間多く学校に通うことに劣等感を覚えましたが、仕方ないとあきらめ受験しました。結果は合格。
 折しも、その頃は統一協会の合同結婚式やオウム事件が世間を騒がせていた時期でした。次第に私も、「エホバの証人は大丈夫なのだろうか」と漠然とした疑問を抱くようになったのです。入試前後にエホバの証人の活動を休止していましたが、その疑問はさらに深まりつつありました。
 ある日、学校帰りに大手書店に寄りぶらぶらと宗教書コーナーを見ていると、ウィリアム・ウッド著の『エホバの証人――マインド・コントロールの実態――』(1993年、三一書房)を発見しました。「周りにエホバの証人がいないだろうか」とびくびくしながら購入し、帰宅後親に気付かれないように読みました。その中で、過去に1975年にハルマゲドンが来ることを予告しておきながら外したという事実を知り、エホバの証人が似非宗教であると感じたのです。それから、伝道や集会に参加しなくなりました。ここで、私は今後の人間関係の構築について悩むようになりました。なぜなら、「不信者と交際をもってはならない」(『ものみの塔』1960年6月1日)ため、エホバの証人の子供以外の友人を作ることが許されず、皆無であったからです。そのため、記念式や大会には顔を出すという宙ぶらりんの状態で過ごすようになりました。
 高校1年の秋に新聞局を設立し、1ヶ月から2ヶ月に1回のペースで学校新聞を発行するようになりました。高校2年の8月、札幌で高文連の全国大会(全国高等学校総合文化祭)が行われ、幸運なことに私も新聞部門(速報活動)に参加しました。その活動を通じて、多くの仲間と出会い、他校新聞局とのつながりができました。
 「中学校時代できなかった部活がこんなに楽しいものであったとは!」今まで得られなかった楽しさや充実感を得て、とても感激したのを覚えております。
 それから、水を得た魚の如く部活動に没頭するようになったのです。その次の年は、高文連新聞部の全道大会(全道高等学校新聞研究大会)が札幌で行われ、その準備活動の中で多くの人々と触れ合うことができました。まさに、これらは私にとって喜びでした。
 しかし、高校卒業によって新聞局員としての私は終わりを告げるのです。同時に、高文連で築いていった人間関係も幾つかを除いて次第に切断されるのです。高文連で知り合った人は30名ほどいますが、年が経つにつれ年賀状が返信されてくる枚数が減っています。この現実と向き合うとき、私は一抹の寂しさと人間関係の形成に対する不安を抱くのです。これを如何に乗り越えていくかがこれからの私の課題であると思います。

つづく…のかな?


表紙に戻る