『ディエゴ・シメオネ』
極東の小国がサン・ドニの地で受けた衝撃に打ちのめされた頃、 南米の地では一つの名誉有る記録が生まれていた。 アルゼンチン史上初の代表100試合達成。 言葉にするのは簡単だが試合の度に大西洋を行き来する過酷な異動距離と 力量に優れたライバル達に打ち克ってその地位を死守するのは困難である。 ましてや彼は同名のディエゴの様に 無条件で代表に選出される様な技量の持ち主ではない。 では『もう一人のディエゴ』は如何なるキャリアを持って 偉大な記録を作り上げたのだろうか。 1970年4月28日に産まれたディエゴ・パブロ・シメオネは 10歳にならない内からプロクラブが運営する 少年チームで本格的なプレーを始める。 (余談だがこのチームはあの闘犬・チラベルもプレーしていた) 以前に紹介したブラジルのドゥンガ同様に 天性のリーダーシップに恵まれた彼は程なくして頭角を現し、 若干17歳にしてトップチームへのデビューを果たす。 だが当時の彼は現在とは正反対な『優雅なゲームメーカー』タイプであり、 『マラドーナとその忠実な手下達』がベースの代表に声が掛かる訳も無い。 従ってこの時期の彼のキャリアは『親善』試合とユースレベルにとどまる。 転機が訪れるのは欧州へ進出した後の事である。 丁度、中田の様なポッと出の田舎チームに入団した彼は 当時は欧州、と言うより世界最高レベルに達していたリーグで戦う内に、 自分が『棒にも端にもかからない』事を思い知らされる。 そこで彼はこの世界で生き残る為にプレースタイルの変更に取り組む。 『汗かき役』としての運動量とプレッシングの掛け方、 さらには複数のポジションをこなせるだけの戦術理解力。 スペインに渡って続けられた努力はアトレティコ・マドリーにて花開き、 95年のシーズンにはリーグ優勝と国王杯の2冠に輝く栄誉をもたらす。 だがその栄光は終りではなく始まりだった。 程なく彼には嘗て失望を味わったカルチョの名門チームから オファーが届いたのである。
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