南国の春の訪れは本州よりも早いもので、
4月に入ると桜は満開と言うよりも既に散り始めの傾向が見受けられた。
その為、3月をほぼ関東方面のアウェー遠征で費やした
シュバルツ愛媛の関係者はこの年の桜の美しさを満喫できなかった。
尤もどんなに暇であってもシーズン終盤を迎えて、
各方面の『人事異動』が盛んになるこの時期には
そんな気分になれない言うのがフットボール関係者の本心だろう。
ましてや『一部昇格』と言う文字が見え始めたクラブに取っては。
窓から見える薄い桃色の花びらはねずみ男の心情を揺さぶりはしたが、
当面の懸案処理には何の役にも立たない。
眼前には彼の決裁を必要とする書類が
厳冬期のエベレスト山脈の如くそびえ立っている。
「これが全部太っ腹なスポンサーの申し込みなら楽なのに」
シーズン当初だった去年の秋は有り余る暇と空っぽな財政事情の
アンバランスの改善に無い知恵を絞ったのだが、
現在では各方面からの問い合わせと相変らず好転の兆しを見せない
財布の中身に対処に夢の中まで追われていた。
そんな彼の仕事に追われる様子を気遣った
美しい秘書はお茶と菓子をさり気なく机の上に載せて休憩を促した。
「先日のお客様からの頂き物です」
「ああ、ありがとう」
女性の細かい気遣いを理解できない無粋な男は書類から目を離さず、
包みを解かずに菓子を口に入れようとする。
「お待ち下さい」
慌てた武井は不細工な男の右手を両手で掴んだ。
「えっ」
紅いマニキュアが美しさを際立たせる細くて長い指が
太くて短いごつごつとした金村の指に絡みつく。
「ご・・ごめん。気がつかなんだ」
驚いた拍子に離した机の下に転がる菓子の様子には全く気付かない。
「い・・・いえ、こちらこそ」
メイク不要の白皙の肌を真っ赤に染め、視線を下に落して謝罪する。
「し・・・失礼します」
『間違ってこんな所に流れた』と評される才色兼備の女性秘書は
お盆を胸に抱え込みながら小走りで立ち去っていく。
そんな後姿を金村は呆然と眺めるだけだった。
クラブハウスの一室で微笑ましい一幕が繰り広げられた時節は
シュバルツに取っては最も苦しい頃だった。
当初は『ポイント・サプライヤー』としか見なされていなかった
田舎チームの印象は除々に『危険なチーム』と変貌し、
特に『如月の爆発』とフットボール各専門誌が報じた
羽生の4試合連続のハットトリックは決定的な警戒心を与えた。
そんな訳で首位戦線に名乗りを上げた3月以降は
対戦相手はホームアウェーの区別に関係無く、
露骨なまでの守備的布陣を採用してとりあえずは勝ち点1、
あわよくばカウンター1発によるスリーポイントを目指す様になった。
苦しい時期ではあったが幸いな事に『勝利の方程式』を持つチームは
どうにか勝ち点を積み重ね、花見での乱痴気騒ぎが新聞を賑わす頃でも
どうにか首位戦線に片足を引っ掛けていた。
日本各地で入学式の喧騒が一息ついた4月中旬、
シュバルツのホームで行われた首位挑戦の切符を賭けた直接対決は
『神奈川ガイスト』の引き篭り的布陣の前に
途方に暮れる漆黒のチームの困惑振りがくっきりと描き出されていた。
「まずいな、これは」
水谷も胸中の不安を険しい顔色に出していた。
この地点でのエスパーダとの勝ち点差は5、
一見射程圏内に見えるが直接対決は終了しているので一気にとは行かない。
さりとて今後の対戦相手を考えると道産子の熱いサポートを受ける
このチームの取りこぼしの可能性は少ない。
である以上、直接のライバルを叩かないと昇格の可能性は極めて低くなる。
白を基調としたユニフォームが分厚い壁を作って
漆黒の18番をマークする。
一時は得点王レースを独走していた函館の『黒い弾丸』に追いつき、
前節、ロスタイムでの決勝ゴールで遂に逆転した
羽生には常に複数のマーカーが貼り付いていた。
「どんなにボールを回しても最後の仕上げはあいつ」
そう評されるホームチームの攻撃は砦を崩せそうで崩せない。
「誰をいれようか」
前線でポイントを作れる下田か、
それともドリブルで描き回せる坂田か、
はたまた由口を中盤に上げてアクセントをつけるか。
ぎりぎり一杯の勝負所だった。
後半30分を目前にして水谷の決断は未だに降されていない。
時間的に攻撃の選手はここで投入しないと効果がない。
頭では理解しているが踏ん切りがつかない。
幾つもの攻撃パターンが頭の中を駆け巡るが、
どのパターンも有効そうで有効でない気がする。
ふと、得点掲示板に目をやって他会場の経過を確認するが、
5分前と同様にエスパーダ一点リードに変化はない。
「止むを得んか」
放り込みは嫌いだが心身共に消耗している現状では仕方ないか。
ベテランポストプレイヤーの投入を予備審判に伝えようとした時、
事件は起きた。
右サイドで数人に囲まれながらもボールをキープしていた徳宮は
一瞬の隙を見つけて短いスルーパスをペナルティエリアに通す。
素早く反応した羽生が珍しくサイドに流れると、
余り正確でないセンタリングを中央に放り込む。
当然、彼のいない中央では左サイドの茂原が位置していなければならないが、
彼は羽生の様なオフ・ザ・ボールの動きの鋭さは備わっておらず、
ようやく動き出した際にも彼のマーカーは充分に対応できた。
しかし、『爆撃機』に置いてけぼりを食らったセンターバックは
次善の策として直線的なドリブラーのマークに切り替えてしまった。
その瞬間、ガイストの守備陣に混乱が生じた。
親会社の裕福な財政内容は矢継ぎ早に有力選手の確保には役立っても
有機的なコンビネーションの確立には効果はなく、
お見合いでこぼれたボールを拾った矢野のシュートを弾いた
マーカーは1発レッドで退場となり、
ガイストのキーパーはその気持ちには答えられなかった。
緊迫した展開だった試合は突如として様相を変化させた。
リードした11人のチームは素早く守備を固めるべく
動きの少ないパッサ−を下げ、
リードされた10人のチームはフォワードを投入して
取り合えず前線にボールを放りこむ。
一見、危険なようで単調な攻撃はシュバルツの牙城を崩すには至らず、
そのままタイムアップ。
計らずも自身のスタイルも守った形の水谷がインタビュー後に
掲示板を振り向くと信じ難い逆転劇を意味するスコアが
エスパーダの試合会場に浮かび上がっていた。
行楽日和と言いたくなる春の日和が
プレハブ以下のクラブハウスを暖かく包み始めた四月下旬。
二階の一室では性格の悪さが容貌に滲み出ている
おっさん達が机を挟んで皮肉と嫌味に溢れた会話を交わしていた。
この光景自体は別に珍しい事ではない。
経営責任者として怪し気な手腕を振るうGMは
お世辞にもフットボールの知識が深いとは言えずに
『耐え難きを耐え』年長の悪友に教えを乞うていたし、
『スペクタクル』に対する欲求不満に貯め込んでいる監督は
選手獲得を含めた諸問題の解決をリクエストしていたからである。
珍しいのその中身の方で一年未満の彼等の『歪み切った関係』の中で
初めて明るい希望が感じられる話題が上っていた。
「一部と言う呪文は大層なものだな」
金村は香ばしいお茶を楽しみながら内々に打診されている
スポンサーの金額や自治体からの協力内容を聞いて笑顔を抑えられない。
「ま、うちは色々話題になりやすいからね。
流行りの言葉で言えばリベンジって奴だよ」
対照的に水谷は素っ気無く茶菓子を口に放りこんだ。
「何せ、今あんたが提示されている内容は
全て『昇格』と言うパスワードが必要なんだよ」
風車の国で旋風を巻き起こしていた指揮官は
最終節で『ユニバーサルカップ』出場権を逃した
苦い経験を持つだけに楽観には走れない。
「ま、そりゃそうだがそれでも地域リーグ降格に怯えていた
あの頃に比べれば大層な進歩じゃないか」
「ああ、だがまだ昇格が決定した訳じゃない。
相手が地域リーグ降格の瀬戸際に立っているからってな」
「そりゃ向こうも降格が掛かっている以上、
実力以上の力を出してくるだろうけど、今のうちなら勝てる相手さ」
「コンピュータゲームが割り当てた数値通りに事が運べばな」
「・・・・そいつはプレッシャーと言う奴か」
さすがに金村も楽しい白日夢から目覚めた。
「ああ、経験者は語ると言う奴だよ。
清楚な花の美しさに気付かぬ鈍いお前さんでもあの凄味はすぐに解るよ」
「?」
「うちの壁は大変薄いからすぐに耳に通ってしまうのさ」
片目を不器用に瞑った鬼瓦に言い返す言葉は金村には思い付かなかった。
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