『インド三国志』


陳 瞬臣  講談社文庫

『お釈迦様とカレーの国』
とはあるインド学者が自身の研究対象に対する
日本人の一般的印象を苦笑した台詞である。
実際にはインド人自体が統計学的な記録には関心が無かった為に
(その代わり、情緒的な記録は数多く残っているらしい)
論文なり小説が書き難いと言う事情がある。
まして『唐天竺』にる言葉が地の果てを意味する程に
いろんな意味で離れている我々が彼の地の生々しい記録を
中々眼にする機会が無いのは当然かも知れない。

中国関係、と言うよりアジア関係の題材を取り扱う小説家として
知られる陳瞬臣がインドに着目したのは、
大学受験の際に倍率の低いインド語専攻の道を選んだからであり、
決して慧眼の故ではない。
だがそんな偶然の選択が作家としての彼に
幅広い視野を与えたのもまた事実である。
彼の作品世界には日本関係の小説にしばしば感じられる
視野狭窄的な窮屈さは微塵もなく、
周辺地域の概略をも抑えた文章でありながら
本題に逸れる事無く話を進める技量は、
『作家』としての技量よりも人間としての『経験』を感じさせる。

そんな彼がイスラム教を掲げる征服王朝と
ヒンズー教を載く土着勢力が相対する隙間を縫って西洋諸国が地盤を作る
十七世紀後半のインドに食指を動かさない訳がない。
教条的な性格故に常に敵を作ってしまうムガル帝国第六代皇帝。
まとまりの無い少数民族を統合したマラータ族の指導者。
そしてバイタリティ溢れる冒険者として亜大陸に乗り込む欧州人達。

物語は彼等の思惑を軸に紡ぎ出されていく。


『王位か然らずんば死』
十七世紀に最盛期を迎えたムガル王朝の皇子達の宿命である。
本人の意志とは無関係にバックにつく重臣や母方の有力者達が
あれこれと策謀の糸を紡ぎ出し、やがては武力衝突に至る。
尤も敬虔と評するには器量が狭過ぎるアウラングゼーブの場合、
『人間の魂はイスラムの幾何学的模様の如くすっきりしなければならない』
と傍迷惑な使命感を燃やしていた。
そして敵方に取って迷惑千万だったのは、
彼は自らの主観で許される範疇内では有能且つ柔軟な人物だったのである。

この様な厄介極まりない人物に対抗するには
余程の統率力とカリスマが必要であった。
イスラム教とは相容れないヒンズー教を信仰するマラータ族に取って
(つまりアウラングゼーブから睨まれる運命にあった)
幸運だったのはシヴァージと言う非凡なリーダーに恵まれた事だろう。
彼が非凡だったのは単純に軍事的能力に優れていたからではない。
国造りには(マラータ族には故国が存在しなかった)
現世的な理念を超越した共通の理念が必要である事に気付いた。
そして宣伝方法も誰もが理解しやすい詩や歌に変えて広めていったのである。

アウラングゼーブとシヴァージの戦いは、
基本的に劣勢な後者が優勢な前者の隙を衝く形勢に終始した。
何せインド亜大陸の中枢部を制する大帝国と、
山間部にへばり付く一部族の戦いである。
後者がいかに戦術的勝利を積み重ねようとも大勢が揺らぐ事はなかった。
にも関らずこの争いがムガル帝国の生命のみならず、
近代インド史に多大な影響を与えたのはそれを利用して
勢力を拡大した連中が存在するからに他ならない。

彼等はそれぞれの国籍も違えば目的も異なり、
そして本質的にはライバルですらあった。
にも関らず一つの勢力と見なされるのは何れもインド進出を目論んで
創始した組織名が同じだからである。
『東インド会社』
コロンブスの大いなる間違いは二世紀近い歳月を経て、
ようやく矯正されたのである。

本来であれば欧州人達の活躍も言及せねばならないが、
彼等はアウラングゼーブにもシヴァージとも直接の関りはない
サイドストーリに過ぎない以上、細かく言及する必要は無いと思う。
その勢力がインドの命運に関るのにはまだ暫くの時間が必要だった。


 

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