産業革命を果たした欧州各国が圧倒的な国力にモノをいわせ、
アジア・アフリカで植民地活動に勤しむのは
世界史のごく一般的なイメージとなっている。
だが事実は、特に17世紀中頃までは攻守の役所は逆で
圧倒的な軍事力を持つアジア(とアラブ・中東)が
欧州を土俵際まで追い詰めるシーンが相次いだ。
今回はそのパワーバランスが変わった重要な戦いを追ってみたい。
時は1683年、戦国バブルが弾けた後の不良債権を
過酷なリストラでどうにか処分した徳川幕府が、
『鎖国』と言う熟睡モードに入って暫く後の事である。
当時、数少ない交流国だった中華帝国・清に匹敵する
領地を所有していたオスマン・トルコは
史上二度目の欧州中心部への侵攻を開始する。
具体的な目的地はウィーン。
彼の地は複雑な血縁関係を結ぶ事で欧州最高の名門として
名を馳せるハプスブルク家の居住地であり、
当時は欧州の中心と目されていた。
直接の契機はオーストリア帝国領となっていた
ハンガリーで貴族達が起こした叛乱である。
(実際は従属同盟の解消と言う所か)
そんな偶発的な事件の割にはオスマン帝国の動きは素早い。
既にハーレムの世界に埋没していたスルタンに代わって、
十五万の大軍を速やかにウィーンに進撃させたのは
大宰相と訳されるオスマン帝国の事実上の主。
ハンガリー叛乱の仕掛け人が誰であるかを如実に表している。
これに対抗すべきオーストリア皇帝の動きも素早かった。
彼はコンスタンティノープルの悲劇を再演するつもりも、
ましてや自分が主役を演じるつもりは微塵も無かった。
親族にウィーンの防衛を委ねるとリンツと言う土地に脱出を果たす。
勿論、我が身可愛さの行為では無い。
イェニチェリの精強振りと三十年戦争で露呈された
自軍の弱腰を熟知していた皇帝はある呼び掛けを行っていたのである。
『キリスト世界を死守すべし!』
オーストリア皇帝の呼び掛けに応じたのは、
自国民の大半がカトリック教徒であるポーランド国王だった。
勿論、ヤン・ソビエスキー3世の出兵理由は
『キリストの大義』とやらではなく、
ハプスブルク家が所有する欧州政界への影響力と
(平たく言えば恩を売りつけて今後の見返りを期待)
自らの権力基盤を固めたい思惑が出発点となっていた。
そんな彼に取って幸運だったのは火力を重視するオスマン帝国が
コンスタンティノープル陥落時に使用した様な重砲を持ち運べずに
(バルカン半島の距離と地形を考えれば当然だが)
時間の掛かる包囲戦を執らざるを得なかった事。
並びにウィーンの士気が高かった事だろう。
何せ落城すれば3日間に渡る略奪が合法的に認められるオスマンの事である。
コンスタンティノープルの悲劇が尾鰭をついて出回っていただろう
当時では『落城イコール虐殺』の図式が多数の市民に
はっきりと浮かび上がっていたに相違ない。
何時の時代でも人の行動は恐怖をバネにしたものが一番手強い。
勝敗が決したのは9月12日の事だった。
翌日の攻撃を予定していた援軍達だったが、
(ポーランド以外にもドイツ系の援軍も混じっていた)
長期の包囲に集中力が緩みんだオスマン軍の内情をキャッチした
ポーランド国王は夕方五時の黄昏時を利した奇襲を仕掛ける。
通常ならば各個撃破され兼ねない情勢だが、
軍事革命の担い手たるオランダ・スウェーデンの『新型軍』との
交戦経験を持つカトリック達の呼応は素早かった。
技術面での停滞と自身の巨大化に拠って、
嘗ての精強振りが霧散したイェニチェリには、
勇猛なポーランド騎兵とウイーン防衛軍との挟撃を凌げなかった。
この敗戦はレパント海戦や補給が続かなかった
第一次の包囲とは根本的に異なっていた。
『俺達はやれる』
大航海時代のスペイン・ポルトガルが持ち得た異民族に対する
優越感を手にした中央ヨーロッパ人達は
戦略方針を『専守防衛』から『積極侵攻』へと切り換える。
第一次世界大戦の種子を撒き散らしながら。
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