何時の世も最も魅力的なチームが勝利する訳ではない。
内容的には詰まらなくても『負けない強さ』を持ったチームが
スペクタクルを求める批判の声にめげずに
最上の名誉を得る事はままある事である。
今回はそんな強さで頂点に辿り付いた2つのケースをを追ってみたい。
時はレアル・マドリードの欧州支配が途切れ、
ペレを基軸としたサンバのリズムがフットボールの世界に
鳴り響いていた頃の話である。
アタッカー達の華やかな技量が全てを決すると
疑う事無く信じられた時代において、
あるイングランド人は逆説的なアプローチを試みる。
男の名前はアルフ・ラムゼー。
ホストカントリーとして義務付けられたW杯優勝の為に
彼が選んだのは守備と組織力だった。
彼が指揮したイングランド代表の表記上のシステムは
スタンダードな4−3−3。
但し右のウイングが中盤にまで下がった事に象徴される様に
このチームの主眼は前方よりも後方に置かれていた。
理由ははっきりしている
イングランド・バンクスと呼ばれた鉄壁のゴールキーパー。
冷静且つ統率力に長けたスイーパー。
そしてキャノンシュートを持つ中盤の司令塔。
前よりも後ろにタレントが集っている以上、
それを活かさない訳にはいかなかった。
勿論、この方針に叛旗を翻す選手も存在した。
俊敏な動きと鋭い得点感覚を持ち、刹那の動きに賭ける点取り屋に取っては
前線の動きを重視しないチームスタイルは合っていなかった。
だが皮肉な事に彼が抜けた事で母国は最後のピースを埋めてしまう。
代役がこなす前線からの献身的な動きはオープンスペースの活用の為に
質量伴った動きを要求されるスタイルに合到し、
その御褒美として彼は決勝でハットトリックの名誉に浴した。
『守備的過ぎる』
賞賛と同時に包まれる批判は
32年後にはドーバー海峡を渡る事となる。
1994年5月、共に最後の最後で新大陸のチケットを取り逃した
ナショナルチーム同士が国立競技場で初めて顔を合わせた。
結果はアウェーチームが4−1の大勝。
パパン・カントナ・ジョルカエフ・デシャン・デサイー等を擁し、
親善試合に過ぎないキリンカップに信じられない程の熱意を見せた
フランス代表はその実力をまざまざと見せ付けた。
尤もこのチームのメンバーの内、
4年後まで生き残ったメンバーはほんの僅かであった。
センターフォワードの人材不足に悩まされたかに見えた
エメ・ジャッケに取っての本当の悩みは世代交代だった。
イングランドの成功を横目に見ながらひっそりと始めた
育成プログラムはまだこの地点では主流派とはなっておらず、
天衣無縫に育てられたプラティニの影響を色濃く受けた世代が主流だった。
華麗なシャンパンフットボールを見せれば敗退が許されると言う
温い立場でなかったジャッケはマスコミの批判を覚悟の上で
(実際は戦争状態だったのだが)
手堅い守備を前面に押し出したチームを作り上げる。
経験・スタミナ・身体能力に優れた歴戦の強者達を
後方に配置して鉄の壁を築き上げた上に
アタッカーにも守備意識の高い選手を優先した。
『守備』の概念が発展したチームに合っては
恐らく全盛期のパパン、カントナ或いは伝説のフォンテーヌであったとしても
十全たる力量は発揮できなかったであろう。
その結果として彼のチームは手堅く、そして面白味の無いチームとなった。
当然の様に前評判も好感度も低く、
準決勝辺りまで選手達が『地元なのに盛り上がりが足らん』と
ぶうたれる始末だった。
だがそれはその内容だけではなく、
着実に歩を進める安心感もあったのではないか。
実際『猛犬』が率いるパラグアイや
カテナチオとの戦いに勝利した後の観客の喜び具合を見ると
『ブルース』(フランス代表の愛称)自体の愛着はある様に感じられた。
只、自分達の嗜好と違う方向に対する
理性と感情の軋轢の表れだったのではないか。
実績が正しさを立証するまでは。
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