『ジャシント・ファケッティ』
アズーリ(イタリア代表)の最高のレフトバックは誰か? フットボールにおける世代と経歴が明瞭になる典型的な質問だろう。 70年代末から80年代ならばアントニオ・カブリーニ。 80年代末から90年代ならばパオロ・マルディーニ。 そして60年代から70年代はジャシント・ファケッティ。 見事なまでに区分された系譜ではあるが、 彼等の経歴を詳しく追って見れば『初代』と継承者達には ある明確な差異が横たわっているのが理解出来る。 若い頃は前線の選手だったと言うファケッティが 天職を得たのは定かではないが、選手としての経歴を見れば 60年に地元のチームからインテル(インターミラノ)移籍する 前後だったとと推測される。 何故なら当時は今ほどの天文学的金銭は乱れ飛んでいなかったにせよ、 『外国人天国』であったセリエAはやはりと言うか、 それぞれのナショナルチーム攻撃の名手達が集っていた。 そんな中で『準名門』とは言え、 (当時のインテルは国際的なタイトルを獲っていなかった) 18歳の無名の少年がフットボーラーとして生きていくには、 激戦区から離れたポジションに身を移すか、 ルイジ・リーバの様に田舎のチームで天下を握るしかなかった。 大柄で足が速く、大きなスライドでダイナミックな攻撃参加を仕掛ける。 さらにはフォワード時代の得点感覚を活かしたシュートを放つ。 『超攻撃的』と言いたくなるプレイスタイルではある。 だが彼が所属していたチームを指揮していた人物は あの『カテナチオ』を完成させたエレニラ・エレオである。 守備的な戦術を採用するチームにあって生まれた攻撃的なディフェンダー。 逆説的だがエレラの以下の発言はそのパラドックスを鮮やかに解いている。 『守るだけなら、誰でも出来る』 確かにその通りである。そして彼の指揮したチームは戦術こそ 『ファンタジー』を真っ向から否定したいたが、 オフェンシブの選手は何れも世界的な名手だった。 ラディスラオ・クバラ。ルイス・スアレス。サンドロ・マッツオーラ。 そこまで行かなくても代表のレギュラーを張れる選手も存在していた。 南京錠が強者のオーラを発揮するのは 数少ない得点機をモノにする強力な得点力があっての事である。 警戒された前線だけではチャンスを掴めない時、 元フォワードの得点力は頼りになったのであろう。
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