南国とは言え、十二月ともなると黄海から吹き付ける風も冷たくなる。
右頬が除々に鈍くする感覚は黒一天軍団長に
底無し沼へと埋没する不気味な恐怖感を一層際立たせる。
「赤・赤・赤!」
浜辺で行われている戦闘に決着をつけるべく、
修一郎は比較的足場の良い地点から側背攻撃を命ずる。
彼同様に身に寸鉄を帯びない騎馬武者達は
今回は騎乗せずに殺戮の場へと殴り込む。
彼等の行く手には田舎者丸出しの色彩感覚を持つ
鎧兜の武者達の乗馬達が足を取られて転倒する醜態を曝け出していた。
個人の武勇ではなく集団の錬度を見せつけるかの様に一番が襲い掛かる。
彼等の周囲では一方的な殺戮と現世との別れを果たす者達が続出している。
「離脱!」
素早い移動を命ずる平左の叫び声が聞こえたのは気のせいだろうか。
斜めに侵入した集団は向きを真後ろへ変える刹那に
三番を軸とした槍持ち足軽の隙間から二番を軸とした号砲が響き渡る。
士大夫の誇りを打ち砕かれるかの様にあしらわれ、
一方的な敗北を余儀なくされる騎士達。
しかしその見慣れた光景は修一郎に歓喜をもたらす事はない。
今回は博方以降の調略も計画も練ってないもんやから無駄使いが多いわ。
ま、田舎豪族達が羽戸川の煽りに乗っ駆って
気侭に戦こうてる間は負けへんやろうけどこのままじゃやばいで。
さて、どないしたもんやろ。
「軍団長殿。追撃なさいますか?」
豊五が愚問を発したのは修一郎の意識を眼前の事態に集中させる為である。
「いや、引き上げさせろ」
頭を振って応える猫背の青年も擂り鉢の気遣いに感応し、声を荒げない。
「緑・赤・白・青!!」
帰陣を促す野太い声の連呼が修一郎の背中で響き渡っていた。
昼間から夕方にかけての戦闘に時間を食ってしまった
黒一天は博方手前での夜営を余儀なくされた。
洋駿から呼び寄せた黒鍬(工兵)が簡易宿舎を組み立て、
小荷駄(補給)が携帯食糧を中心とした調理に精を出す。
そして使い番達が交代で四方に警戒網と三里先の連絡を絶やさない。
統制の取れた動きは修一郎を満足させるが、
同時に彼等を鍛えたのは自分は無い事も自覚している。
−坊主殿は相変らずええ仕事をしよる−
足軽・騎馬武者・鉄砲組の編成のみならず、
後方の組織をも有機的に組み立てる様は舌を巻く思いである。
澄み切った空気に包まれた冬の夜空が一面を覆った戌の刻(午後八時)、
乾燥させた菜っ葉を混ぜた雑炊を掻き込んだ幹部達は
地図を見開きながら今後の方針を話し合う。
「羽戸川はやはり博方からの退去のみと言う方向で」
一時は旗色を盛り返したかに見えた羽戸川だったが、
黄海社中の活躍に拠って出費を最低限に凌いだ
黒一天の経済封鎖の前には如何ともし難く、
−水は所々漏れてはいたが−
既に今後の処遇について水面下での交渉が開かれている。
「ああ、今の所は博方の支配権さえ取れればそんでええ」
米価の件が概ねこちらの思惑通りに推移した以上は
彼等の生命には頓着する必要は無い。
「畑田・島野・斎藤は如何に」
昼間の相手は羽戸川の重臣、と言うよりは下位同盟者と言うべき
有力豪族が状況の変化に伴って差し出した先遣隊だった。
「ほっとけ。今は南まで手が回らん」
「庄和台までおびき寄せて仕留めると言うのは?」
実戦部隊の総意を一番頭が言上する。
「悪くはないがそれやとこっちの手勢が足らん」
この場合は財政が許せる範囲内と言う意味である。
「目鼻立ちはついとるが、どうも当節の女神は
化粧が決まらんようでなかなかに表に出てこうへん。
そやけどが落し所は見つけて黒一天の眼前に連れてくるさかいに頼むで」
「はっ」
予定外の長陣に伴う小室の蠢動が気になる現在では
如何に話を纏めるかが肝要だった。
黒一天と羽戸川との交渉妥結に決定的な要因を果たしたのは
再帰順した羽戸川船手衆と長瀬衆の海上での戦闘結果だった。
「きっちりと請負料分の仕事はこなしたという事やな」
監軍使の署名入りの書状を蝋燭が照らす明るい一角で眼を通す。
この時期の朱闘犬(長瀬)と黒一天の間柄は
黄海社中のそれと類似していた為に
その水軍力を発動させるには応分の謝礼が必要だった。
「そやけどあん時、俺が我慢出来ずにやってもうた
あの立ち振る舞いが博方全域の支持を得ると皮肉なもんやで」
実効支配権が狭かった羽戸川は貴重な戦力を統御し切れず、
ならず者達の乱暴狼藉振りに博方商人や民衆が
相当の不満を抱え込んでいた事は探知していた。
しかしここまで根深く且つ新たな秩序が求められているとは想像外だった。
「本間龍長様を御支持させて頂きます」
包囲網が崩れて予想外の出費が嵩む中、
突然に助力を申し出た旧守層の思惑を当初は理解出来なかった。
しかし彼等は修一郎の戸違いを見透かすかの様に
莫大な矢銭(軍資金)の提供を始め、
『羽戸川の手勢は腹を空かせて気力がありませぬ』と
表向きは羽戸川支持で通している出入り商人が
出口の見えない状況に焦慮を深めている先方の状況を事細かに伝えてきた。
そしてその情報が今回の全軍挙げての迎撃に繋がったのだが、
−最終的な決断は『前線の無聊を慰める為に』呼び寄せた
田舎楽座に紛れこませた甚助を通じて確認してからの事だったが−
その後も忠誠を見せ付けるかの様に情報なり物資を寄越して
現在では黒一天の後方連絡線を実質的に支えていた。
「問題は後の『お支払い』やな」
したたかな商人達に無償の善意などはあり得ない。
状況が落ち着けば間違い無く相応の要求を着き付けて来るだろう。
「座の権利をどんだけ認めるかやな」
旧守な仕組みの上に成り立つ組織の温存は今後を考えると鬱陶しいのだが、
ここまで働いてくれた以上は相応の利益は与えねばならない。
「河州南部の商権を餌にするか」
採算の合わない侵攻に気乗り薄な黒一天軍団長は次第と迫ってくる
眠気に耐え切れずに寝椅子に身を横たえる。
ま、後の事は後で考えるか。
今は明日中に博方に戻る事だけ考えにゃ・・・。
河州と言うよりは河南全域に小室と並ぶ強豪として勢威を靡かせた
麒麟の軍旗が新年まであと四日と迫った
潮の風に吹かれながら南の海上へと消えていく。
「残念やったな」
黒一天軍団長が復讐の機会を逃した筆頭参軍使に話しかける。
「彼奴が死んだ訳ではありませぬ故に」
鋭い表情は本心である事を如実に物語っている。
「ま、今は上納金を確保せにゃあかんからな。
向こうの我侭に蹴りがついたら鯨でも食べに行こうか」
宗洋での捕鯨は河州南部でしか行われない。
「はっ」
修一郎の何気ない意思表示に豊五は頭を下げた。
数日前まで羽戸川の象徴だった屋敷では金食い虫がふんぞり返っていた。
「樹州知事に申し渡す」
西管家からの上使は高々と書状を差し出す。
『去年以来の相次ぐ忠勤に余も満足の思いである同時に
慶督大乱以来の大命を思い起こす契機とも相成った』
瞬間、樹州知事は身を凍り付かせる。
ほ、本気か。おい。
『省みれば我が西管家は天下に正義を広めるべく、
幾度となく関中に兵を進めるも未だに本懐を達するには至らず、
余は断腸の思いを禁じ得ない』
朗々とした調子で読み上げられる語句は始めて聞く訳ではない。
否、耳に蛸が出来る程に聞き慣れた戦場への招待曲である。
『来年三月を持って標関を討ち出て大義を世に示さん。
ついては黒一天軍団長たる本間龍長を姫島に招来せん』
全てを読み終えた上使は作法通りに書状を眼前に指し示す。
確かに西管家当主たる仙波忠三郎雅恒の流麗な花押が存在する。
「小生も御館様の大志に添うべく微力を尽くしまする」
平伏しながら述べる唯一の台詞は我ながら熱が篭っているとは言い難いが、
予想外の事態に頭が混乱している現状では演技に走れない。
−誰や。こんな無謀な事を仕組んだ奴は−
修一郎は懸命に好感情を持った事の無い有力者達の顔を脳裏に浮かべていた。
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