鹿浜が陥落したのは二月も下旬の事だった。
前月の襲撃に失敗した後、食糧と士気の低下に苦しむ篭城側では
「和議」の交渉を申し出ていたのだが、
優位に立つ修一郎側は交渉自体には応じるものの、
東側の交渉同様にいろいろと難癖を付けて来た。
やれ、退去の手順がどうのこうの、
砦引渡しの時刻がどうで儀式の内容はああしてこうして。
今後の関係については取り敢えずは考慮する事、云々・・・・・
重箱の隅を突付く様な嫌らしくてしつこい手法は羽戸川のみならず、
黒一天首脳部からも非難が聞こえたが修一郎は黙殺していた。
彼には洋駿帰還の期日を出来るだけ引き伸ばしたい
切実な個人的事情が存在していたのである。
「何時になったら旦那様は御帰還出来るのでしょうか」
恵有から送られた『奥方様』宛ての手紙を届けた
近侍の女性が『紅屋』の御令嬢にして『河南支店』の店長に尋ねる。
「そうね、ようやく鹿浜の手順も纏まった様だから
きっと来月の初めじゃないかしら」
落ち着いた様子で白皙の肌と黒く澄んだ瞳が印象的な美女が応える。
この地点では修一郎と彼女はまだ籍は入れていないのだが、
周囲の者はこの両者を既に『夫婦』と見なしている。
「雪香様は少々のんびりし過ぎなのでは」
修一郎と雪香の馴れ初めから二人を見ている老女は
昨今の彼女の落ち着き振りが理解できない。
「別に関中の死線を彷徨っている訳でもないし、
戦死の心配がない以上は何時かは戻って来られるでしょう」
付き合い始めた頃は出征の度に毎日頬を涙に濡らしながら、
一心不乱に無事を祈願していた頃とは雲泥の違いである。
「それに此度こそはすれ違いの心配もないでしょう」
鮮やかな手前で立てた薄茶を一口飲みながら、
清楚と色気が同居した二十代前半の歳相応の笑みを浮かべる。
「ええ、今度こそは逃すつもりはありません。
彼はここへ戻ってくる道しかありませんから」
穏やかな表情には静かな自信が込められている。
「ええ、今度こそは必ず」
老女は雪香から立ち込めるある種の空気に身震いを禁じえなかった。
さて後に『美女と野獣』の見本としてしばしば文芸の対象となる
男女が河南の地で再会したのは
早咲きの桜が咲き誇る三月初旬の事である。
雪香としては昨年のうちに河南に出向きたかったのだが
商談で発生した予想外の事態への対処に手間取り、
不本意な年明けを姫島で迎える羽目となっていた。
河南出立の様々な手配を済ませて
−紅屋の『本店』を任す人材の選出、雅道の数寄者としての挨拶回り等−
修一郎が羽を伸ばしている地に辿り着くと、
城攻めだとかで何時帰ってくるかは不明との事だった。
「絶対、逃げている」
照れ屋である恋人の動向等手に取る様に理解できる。
帰ってきたら只じゃ許してあげない。
益々、秘め足る決意を固める雪香だった。
生誕地の記録が確かならばこの年、二十七歳となる
本間修一郎龍長は人生には避けられない場面が存在する事を
理解していたつもりだった。
そして最高級の調度や支度品で飾られた紅屋の応接間で
ほぼ半年振りに恋人にあった瞬間、
その場面が遂に自分に訪れた事を直感で感じ取った。
「まずは大零山襲撃御成功の件、おめでとうございます」
笑っていない眼で相手を射すくめて祝辞を述べる雪香を見た瞬間、
修一郎の猫背に冷や汗が流れる。
「い、いやまぁな。こっちにも色々と事情があってな・・・」
「いやですわ。私如きの意向など気になさらずに宜しいのに」
言葉の裏に隠された怒りと不満を野暮天は珍しく感知した。
「ま、まぁあれや。勘定奉行次席の方には俺からも謝っとくさかいに」
「それだけですか?」
「も、勿論『紅屋』の方にもちゃんと弁償はするよ」
瞬間、雅道の数寄者は頬を膨らませて抗議の意を表す。
「何にも解っていないんだからぁ」
そう言うと修一郎の胸に飛び込んで子供の様に泣きじゃくる。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿ぁ・・・・」
こういう時、どうあやせば良いのか修一郎には思い浮かばない。
「どうして『長い間、待たせてご免』とでも言ってくれないのよぉ」
泣きじゃくる姿に相応しい涙声で紅屋の女主人は詰問する。
「何時になったら責任取るのよぉ」
「えっ、い、いや、そ、そのあれだ。まぁ近々・・・」
「そんなんじゃ駄目。はっきり言って。言わなきゃ離さない」
「わ、解った。明日にでもちゃんと申し込むから取り敢えず泣き止んでくれ」
「今言って」
「えっ、で、でも今は何も用意していないし」
「今言わなきゃ離さない。お仕事場にも返してあげない」
二人の間柄が『かかぁ天下』に決まった瞬間でもあった。
どんよりとした雲が天空を覆い、
今にも倒壊しそうな建物からは寒々とした隙間風が聴覚を刺激する。
そんな俺の目に数人の小汚い餓鬼共が誰かを囲んでいるのが写っている。
一体何を・・・・・・・・あっあれは・・・・・・俺やないか。
と、するとあいつ等は・・・・・・あのヘタレ共か。
そやけどあいつ等は俺が出て行く時にお礼参りとして
火薬に火ぃつけて全身に大火傷を負わせたはずやったんやけどなぁ・・・
「やーい、やーい、ふりんのこぉー」
「おやなしこー、しんじまえー」
なんやと、俺が悪いんか。待てやこの糞餓鬼共。
今度は鉄砲で鉢の巣にしたるわい。
「何で子供なんか出来てしまうんや」
うん、声が急におっさんくさくなったぞ。
それになんかえらいシケた面やなぁ、誰やこいつ。
「ちょっとした気の迷いやったのに・・・・・・
何でお母ちゃんから縁切られ、戦に出なあかんのや」
な、何やと、こいつは・・・・俺の?
「そんな・・・・何で・・・・一回しかしてへんのに」
何や取り乱してるで、このおばちゃん。
「もう堕ろすのは無理やで。産まなしゃあないで」
瞬間、おばちゃんの号泣と親戚らしいおっちゃん達のうろたえる様が
顔も見えへんのにはっきりわかるで。
まさか・・・・
瞬間、焼け爛れた糞餓鬼、シケたおっさん、取り乱したおばちゃん、
そしてうろたえるおっちゃん達の声が一つになった。
「お前さえ生まれへんかったら皆が幸せやったのに!!」
自分を指差す無数の人差し指に対抗するかの如く、
上半身を起こした修一郎は闇に包まれた辺りを見回す。
皆の恨みがましい視線がまだ寝惚けた脳裏に刻み込まれている。
悪夢を振り払うかの様に頭を振るい、額に浮き出る汗を拭う。
「またあれか・・・・」
見知らぬ筈の光景は幼少の頃から何度も繰り返されていた。
「今更なんで・・・・」
玄武の頭になってからは見た覚えはないんやけど・・・・
ふと、隣で健やかな寝息を立てる昨日から妻になった
女性の整った横顔を見つめる。
ほんまにこないな別嬪さん、俺が貰うてええんか?
こんな暗い過去を持つ奴が結婚なんかしてもええんか?
そやけど、嫁入り前の娘さんに手ぇ出しといて
責任取らんちゅう訳にもいかんしなぁ・・・・
蝋燭に火をつけた修一郎は文机に向かうと頬杖をつく。
昨日、彼は周囲と相手の膨大な圧力に屈する形で華燭の典を挙げた。
樹州で独裁権を振るう男と姫島屈指の大商人の令嬢との祝言は
二人の社会的地位に比べればささやかな式典だった。
「雪香は綺麗やったな」
あの鮮やかな衣装が美貌と調和した神々しい美しさは
見慣れた筈の俺が惚けてしまったくらいやもんなぁ。
絵師はちゃんとあの美しさを描けるんやろか。
俺の衣装に着られた様は適当に描いてくれて構わへんけど。
修一郎の丸みの帯びた背中はふくよかな乳房、細くて長い指、
そして鈴の音色の様な声を感知した。
「どうなさいました?」
「何でもない、ちょっと目が醒めてしもうただけや」
「何かうなされておいでの様でしたわ」
えっ?声に出してしもうてたんか。
「もし・・・お悩み事なり、心配事がございましたら話して頂けませんか?
お役に立てるかどうかは断言出来ませんが・・・・・・
夫婦で一緒に背負えば少しは軽くなると思いますわ」
「・・・・・・・・・・」
うーん、どないしよ。出来れば喋りとうないけど・・・・・・・・・・・・
でもこの先ずっと俺があの夢にうなされてる様を気遣わせるのもなぁ・・・
悩める黒一天軍団長を振り向かせた雅道の数寄者は胸に抱きしめる。
「さぁどうぞ。口外は致しませぬ。好きなだけお喋り下さい」
女性の乳房に包まれる心地良い感触と肌を通じて感じる愛情は
修一郎にぽつぽつと忌まわしい過去を呟かせた。
自身の意志と関係ない暗い出生、味方のいない過酷な苛め。
親戚血縁者一同の冷たい視線と仕打ち。
大商人の一人娘として蝶よ花よと大切に育てられた彼女に取って
それまでその手の話は実感出来ない『不幸な話』に過ぎなかった。
だが心を奪われ、夫となった男性からの苦渋は自然と胸に染みた。
「私が・・・」
黒目がちの瞳には涙が浮かんでいる。
「守って・・・差し上げます。ええ、あなた様を苦しめる
全てから・・・どんな事があっても・・全てを失っても・・・・・
例えその事で・・・・地獄に落ちるなら・・・・・・・・本望です」
「すまんな・・・・・・ありがとう」
無粋な男にはそれしか言葉が思い浮かばなかった。
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