『無名の大戦』
後世に知られる大戦と言うのは兵員規模の巨大さや戦術の巧緻だけでなく、 優れた宣伝書が必要なのは『赤壁の戦い』が立証している。 今回、紹介するのは『弱きが強きを倒す』日本人好みの展開ながらも、 宣伝材料の製作を後押しする統一政権が長らく不在であったあった為に 何時の間にか忘れられたある意味不遇な戦争である。 時代は赤壁の頃より2世紀近い歳月が流れ去った頃である。 名士階級を統合する事で統一政権を打ち立てた司馬氏(西晋)は 八王の乱と言う今一つ締まらない身内の叛乱と 異民族の侵入によってあっと言う間に滅亡への道を辿ってしまった。 と言ってもそれを持って新たな統一王朝が樹立した訳ではない。 複雑な人間関係に拠って内部分裂と武力叛乱が 年中行事と化してしまった華北の異民族達による小政権や、 その余慶を被って成立した司馬氏の亡命政権(東晋)には 中々に中華大陸を統一出来るだけの国力を捻出出来なかった。 そんな『どうにもならない』状況は ある理想主義者によって破られそうになる。 その名は苻堅。 この時代の指導者には珍しく戦も強ければ政治にも長け、 ついでに性格もまともな人物である。 だが彼が華北を制したのはそんなお定まりの『名君』だからではなかった。 『一視同仁』と言うこの頃から中華に流行り始めた 仏教の影響を感じずに入られないスローガンの下に、 政争に敗れた食わせ者達を片っ端から受け入れていたのが要因だった。 そんな怪し気な内情を最も理解していたのは漢人宰相の王猛だった。 彼は意図的に厳しい態度で主君や同僚に臨み、 『嘗ての敵対者とその降伏者が大半』な前秦が (長安に本拠地を置いていたのでこう呼ばれる) ともかくも制御されていたのも古典的な『飴と鞭』的な仕様が 上手く言っていたにほかならない。 だが、鞭の方は早々に人生からの退場を余儀なくされる。 そして制御装置が外れた組織のお定まりのコースは 無謀な攻勢と相場が決まっている。 西暦383年、様々な思惑を含んだ公称九十万人の大軍が長江を渡った。
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