『香港』


天上から降り注ぐ水滴に出くわす事が多かったこの年は
日本の美を象徴する重要な要素である花を愛でる機会が少なかった。
尤も晴天が続いた所で太平洋を横断する日々が続いた
グロリアには薄桃の美しさを愛でる余裕などなかったのだが。
「吝い条件だ」
この所、濃過ぎるブルーアイシャドーとの商談が多いねずみ男が
秘書の手によって翻訳された文書を見て苦笑する。
「アジアウィナーズカップに出れない以上、致し方ないか」
同時進行で行われた最終節に際して、
金村が最も注意したのは消火試合となっていた自チームではない。
世界進出が掛かった大一番、ガレオスとロッサの方だった。

「早く決めちまえよ」
前々節の敗北で優勝が無くなって意気消沈気味だった
−金村は複雑極まりない感情を懸命に押し隠していたが−
チームを立て直した鬼瓦がロッカールームに持ち込んだ
携帯テレビを見ながら呟く。
「ロッサもしぶといな。勝ち目はないのに」
『マエストロ』の異称を与えられつつある
自チームのリベロが指揮する様な斬新さは感じられなくても、
堅実な仕事振りはチャンスを未満の段階で潰してしまう。
しかしながらファンタジーの要素が不足している前線も
次第と綻びを見せている3バックを衝ける様な力量はない。
「ドローだったら遠江か」
双方手詰まりの雰囲気が漂う中、隣りのねずみ男が歪み切った面で呟く。

「バカンスだったら香港は良い所なんだけどな」
120分に渡る戦いの結果はリーグ4位としての予備選出場だった。
「どうする?」
「ベストの面子で取りに行く。
 700円の当たりを換金する気分だが無いよりマシだ」
「当たっても10万程度だったけどな」
「まあな。それ以上に向こうさんが何て言うかだな」
GMは正式文書に『海外戦』とだけ記述しておいた
ぱるけの配慮に感謝したい気分だった。



夕陽であるのにも関らず充分以上の熱気の存在が感じられる。
閑散とした15人用のフットボール競技場の芝生を照り付け、
爽やかと言う表現が微塵も思い浮かばない湿気の多さは
選手達の体力と集中力を容赦なく奪い取っている。
「こんなんでお金になるんですかね」
眼前の試合は内容も結果も一方的となり、
オランダ人の眼には金になるソフトには写らない。
「試験放送って奴じゃないのか」
信頼するアシスタントコーチに応えたシュバルツ愛媛の監督は
西陽となって見え難いスポンサーのテレビカメラを仰ぎ見る。

お世辞にも高いレベルとは言えなかった試合に幕を降ろしたのは、
漆黒のパスワークを邪魔する存在でしかなかった主審だった。
「予選リーグを無失点で勝ち抜いたのは喜ばしい事だ」
湯気立つプレスルームでは圧倒的な強さを披露した
−あくまで対戦相手達と比較しての話である−
監督はありきたりのコメントを口にする。

「予選3試合を見る限りでは、ガレオスより
 あなた方のがチャンピオンに相応しい様に思えるのだが」
元植民地だった関係で母国のフッボールに触れる機会の多い
現地の関係者達の目にはコンパクトに3ラインを保ち
長短織り交ぜたダイレクトパスを駆使する様は驚きでもあり、
心地良い快感だった。
「リーグチャンピオンは26試合を乗り切ったチームが受け取る称号だ。
 である以上は平均した強さを発揮した茨城ガレオスが
 名誉に浴するのは当然の事だ」
これは水谷の本心である。

「それに異国の地でフットボールを経験出来る事は我々には得難い経験だ」
こここで不器用にウィンクをかまして笑いを取る。
「まあ必要最低限のノルマは達成した事だし、
 明日の決勝トーナメントは色々と試して見るよ」
少数精鋭しか道の無いチームに取っては
12人目以降の選手育成も重要なテーマだった。



翌日からの一発勝負は夜からの開催だった。
尤もこの時期の無国籍の色彩濃い貿易都市には
涼しげな風が吹く過ごし易い夜など存在しないので、
ピッチの体感レベルは大した違いはなかった。
この日も鬼瓦はその暑苦しい容貌に不快な汗の筋を幾本か作り、
ラインの内側でモチベーションと技量の不均衡が目立つ
漆黒のフットボーラー達を叱咤している。

「礒野!もっと内側に絞れ!」
「茂原!もっと考えて動け!」
「村亀!ラインを下げるな!」
本来のポジションと違う者、平時では貴重なバックアッパー、
そして移籍市場に浮いた計算出来る新戦力達は
懸命に共通意識の醸成に挑んでいるがまだまだ不恰好さは否めない。
そんなギクシャクしたチームが
昨日までみたいに圧倒的な支配力を見せれる訳も無く、
試合は中国の中堅所にペースを握られている。

「どうします?」
ヴィムがベンチ入りしていた羽生・木田のアップを促す。
「ここは耐え所だ。あいつがようやくうちのリズムを掴み始めている」
恵まれた身体能力と恵まれないコーチ学が渾然一体となった
中央への放り込みは衛星会社の『強い』推薦の元に
渋々獲得したアルヘンティーノに弾き返させている。

「マエストロと組ませたら面白いでしょうね」
インテリジェンスとテクニックにフィジカルとマンークを組み合わせた
パターンは中央の守りとしては理想的である。
「だがまだ身体だけでやっている。
 うちで生きていくには組織での動きを理解出来ないとな」
水谷はペナルティエリア手前で取られたファールに猛然と抗議する
姿を見ながらアシスタントコーチに返答した。


前半を0−0で折り返したのは多分に幸運に拠るものだった。
「ジェモ。ラインを下げずに戦え」
必ずしも必要で無い新戦力でも起用せざるを得ない立場である
水谷は190センチ近い長身を感じさせない程に恰幅に恵まれた
30過ぎのストッパーに英語混じりのスペイン語で注意を促す。
「シ!・シ!・シ!」
嘗てはセレステ・イ・ブランコと評される母国のユニフォームにも
袖を通した濃い容貌はプライドをねじ伏せて頷く。
まったく、何だってこんな僻地にこなきゃなんねぇだよ。

後半開始の笛がお世辞にも高レベルと言えない試合内容に
不満を感じているごく少数の鼓膜を刺激する。
彼等が発する感情は次第とピッチの中に忍び込み、
既に本選出場を決めている両チームの攻撃意欲を掻き立てる。
「あれで反則の概念をもっと理解していたらな」
13番を背負っている漆黒のストッパーが
このレベルでは群を抜いている事は一目瞭然だった。
「と言うより『アレ』のイメージが彼を縛り付けている内は
 誰も信頼しないんじゃないですか」
守り固めに入った1分後にペナルティエリア内で提示された赤紙は
母国のネーションズカップ決勝進出と彼自身の評価を奪い取っていた。
「まあな。それと怪我もあって半年も市場で浮いていたからな」
でなければアルゼンチン代表20試合を超えるキャリアを持ち、
欧州の第一線で活躍していた彼を幾ら強力な『力』が働いたとは言え、
3年契約で獲得出来る訳もない。

「半端な知識を持つスポンサーは無知なスポンサーよりやっかいですね」
小さなカップ以外は何も掛かっていない眼前の試合を
無視したアシスタントコーチが左のヘッドコーチとの会話を続ける。
「現場に口を挟むお偉方は誰でもやっかいさ」
そう言えばあいつは口を挟んだ事はないな。
水谷がさらに言葉を紡ごうと口を開いた瞬間、
この試合最初の得点シーンが生まれた。

得意エリアの左サイドでボールをキープしていたスキンヘッダーが
視野の狭さを象徴するアバウトなクロスを上げる。
するとキーパーがディフェンス陣との連携の悪さを暴露するかの様な
中途半端な飛び出しで不要なピンチと混乱を招く。
至近距離で繰り返されるシュートと身体でのブロック。
当然、ミドルゾーンとアタッキングゾーンの境目が空白となる。
こぼれ球を豪快なヘディングでゴールに叩き付けたのは
本能そのままのオーバーラップを敢行したアドルフォ・ジェモだった。


 

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