『礒貝 洋光』
他国から見れば現在の日本は急激にフットボールに適した 人材が急激に輩出しているかの様な印象を与える。 事実、日本にフットボールを根付かせたと自負するジーコ等は 『私が来るまで日本にフットボールは存在しなかった』とまで宣う程である。 確かにアジアレベルで敗北だけを繰り替えした 結果だけ見ればそうだったかもしれない。 だがある時代に極端に何かの才能が傑出する事など遺伝子学的にあり得ない。 今回、紹介するのはそんな『紀元前』の時代に 才能だけで日本のフットボール界に夢を見させた男である。 彼が生を受けたのは時は1969年、場所は肥後・熊本。 丁度フットボール界がメキシコの追い風を受けていた頃である。 幼い頃から腕白坊主だった彼は何故か当時のスタンダードだった 野球ではなくマイナースポーツの一つに過ぎなかった球蹴りに熱中する。 その才能は早くから地元のみならず各地に知られていた様で 当時、故郷の大分に在住していた永井秀樹(現・東京V)も その頃からその存在と才能を認識していたらしい。 その評価は次第と世間へと広がり、 彼は中学生の頃から年代別の代表に選抜されるエリートコースを突き進む。 全てを知る立場から振り返れば礒貝の運命の分岐点は高校選択だった。 彼の選択肢は二つあった。 一つは年代別の代表を通じて知り合った『友達』の多い帝京高校。 もう一つは今年の高校選手権の優勝監督が赴任したばかりの国身高校。 前者は私立、後者は公立だが双方とも越境入学には寛容であるから 入学に際する条件は似た様なものである。 (前述した永井は大分から越境して国見に入っている) この時、彼の選択を決定したのは両校の『監督』の立場だったかも知れない。 現在の国見高校校長にしてサッカー部の総監督は 『魚でも釣ってのんびりしようか』と半ば隠居の心境に達していたのに対し、 コンサドーレJ1再昇格の影の立役者は (去年の年頭に岡田監督に示唆に富む提言を送ったらしい) 当時、高校選手権を連覇してその名声は絶頂に達していた。 そんな状況での『帝京』と『国見』のブランドの差を考えれば 礒貝が前者を選ぶのはごく真っ当な選択だったかもしれない。 そして彼はこの選択で常に陽の光に当たる場所へ位置し、 同時は『ボールを持つ時だけ素晴らしい』選手へと突き進む事となる。
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