W杯において選手と監督の双方の立場で優勝を経験したのは二人しかいない。
一人は58年と62年は左ウイング、70年に監督として
ラテンの超大国を優勝に導いたマリオ・ザガロ。
そしてもう一人が74年に実質上のプレイング・マネージャーとして
地元優勝を、90年には数年来の苦労をカルチョの国で実らせた『皇帝』。
ここでは直前に監督に就任した前者ではなく、
端境期から辛抱強くチームを育て上げた後者に注目したい。
現在の日本ナショナルチームが自国のプロリーグの好影響を受けて
飛躍的なスピードで強化されているのは衆目の一致する所である。
そしてこの法則は63年のブンデスリーガー開幕効果が
72年と74年に結びついた西ドイツも同様である。
だが、『黄金時代』がいつまでも続くとは限らない。
そうそういつも優秀な選手が立て続けに輩出される訳ではない。
ドイツ人らしからぬ創造力と類稀なリーダーシップを持った
『皇帝』が去った後の西ドイツは平凡なチームと成り下がり、
一応の成果を残しながらもそれは『ゲルマン魂』の効用に寄る所が大きく、
(世紀末にはその効用も無くなってしまったが)
『良い選手』だけのチームは『凄い選手』が所属する
チームの引き立て役に過ぎなかった。
この様な条件下、84年に欧州選手権予選リーグ敗退の責任を
取って辞任した前任者を後を受けて就任したのが
フランツ・ベッケンバウアーだった。
尤も『就任した』と言っても監督の資格を持たない
(ドイツのコーチングライセンスの取得は半端じゃない程厳しい)
彼には『チームシェフ』と言う奇妙な称号が与えられた。
監督しての実績より、個人のカリスマ。
この辺りも現在のドイツ代表と似通っているが、
だからと言っていきなりチームが強くなる訳ではない。
カール・ハインツ・ルムメニゲに象徴される世代から
ローター・マテウス達の世代交代、
一見相反する目的をベッケンバウアーは
マラドーナやグーリットが発する光に隠れながら確実に実行していく。
同時にドイツ人らしいフットボールスタイルの確立を目指して。
ベッケンバウアー体制下6年目、『西ドイツ』の国名で出場した
最後のW杯の前評判はそれ程高いものではなかった。
自国開催の欧州選手権、W杯地区予選では共にオランダの後塵を拝し、
タレント的にも『良い選手』は揃っていても『凄い』と思わせる
力量を持つプレイヤーは見当たらず、
『上位進出はともかく優勝は・・・・・』と言うのが一般的な評価だった。
結果から考えると評価の低さはベッケンバウアーに取って幸いしたと言える。
彼はフィールドプレイヤー全員がプレーの精度と勤勉さを要求される
当時の最新システム、3−5−2を基盤に
堅実なチームを雑音に邪魔される事無く作り上げた。
このシステム自体は4年前に『ダーニッシュ・ダイナマイト』と畏れらた
デンマークナショナルチームが採用しているが、
(西ドイツ自身も予選リーグで0−2の完敗を喫した)
ベッケンバウアーはこれにドイツ人らしい現実的な味付けを施した。
『リベロ』のアウゲンターラーとボランチ・マテウスのパス出しを機軸とした
手堅いサイドアタック、パワーと精度で相手の急所を突く
そのスタイルは『ファンタジー』の要素は見られなかったにせよ、
手堅くそして確実に勝利をもぎ取っていった。
予選リーグではピクシー率いるユーゴスラビアを
4−1の大差で仕留めたのを始めとして圧倒的な強さで首位で通過。
(後年、ピクシーは『マークの受け渡しが抜群だった』と供述している)
決勝トーナメント初戦では御家芸の内紛勃発でバラバラだった
(選手達はクライフを監督に要望、しかしオランダ協会はこれを拒否)
オランダをフェラーとライカールトの『場外乱闘』の余計なおまけを
つけながらも2−1とスコア以上の完勝を収める。
そしてチェコスロバキア(当時)、イングランドを下して進んだ
ファイナルの相手はマラドーナ率いるアルゼンチン。
シュート数19対1が示す一方的な試合展開は
試合終了間際の怪しげな笛によるPKによる唯一のゴールで決着した。
この試合は後に一部のマスコミから『天災』とまで酷評される程であり、
その事実が彼等の評価を落しているが
彼等は確実に勝利を奪うプロセスを実行したに過ぎない。
単に相手が『マジック・マジャール』や『オレンジ・マシン』の様に
光輝く存在ではなかっただけの事である。
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