世に『名参謀』『名軍師』と謳われ、
その名に相応しい成果を挙げている人物は多い。
だがそんな人物が宮仕えを全うするケースは意外と少ない。
今回はそんな人物から多分、最も有名な人物の一人で
且つ最も特徴的な人物を挙げてみたい。
太閤秀吉の天下取りの参謀として著名な彼が歴史の表舞台に登場するのは、
天正五年(1577年)秀吉が信長から中国方面攻略を一任される頃である。
実際にはそれ以前から下工作が開始されているので
恐らくは秀吉(織田家)と水面下での接触はあったのだろうが、
今日に残る古文書で官兵衛の名前が初めて登場するのは
七月二十三日付けの秀吉直筆による来信の返答である。
その文書の中で秀吉は『その方を我が弟小一郎同然に親密に思っている』と
書き記し、親愛と友好の念を表している。
尤も全ての結末を知る者からすれば暗示的な表現であるのだが。
官兵衛はまず、地元播磨(兵庫県南部)の小土豪
を織田側に味方させた上で秀吉(織田)陣営に入る。
だが当初から自慢の知恵を振るった訳ではない。
この当時、秀吉の側には堅城として知られる美濃・稲葉山城を
一種の内部クーデターで乗っ取った竹中半兵衛が存在しており、
『中途採用』である官兵衛は次席参謀として大人しくしていた。
それにこの頃の官兵衛はどうやら知識と雄弁を武器に
功名を勝ち取ろうとする所があって
自己抑制が必要とされる『参謀』役が勤まる状況ではなかった。
それを端的に表したのが摂津(大阪北部・兵庫南東部)の大名である
荒木村重の謀反の一件である。
信長は身内から数多くの反乱を招いているが、
その中でも最も原因が究明されていない反乱がこの一件である。
一応『毛利が唆した』と言う事になっているが、
著名でないせいか今日に至るまでその真の原因は解明されていない。
そんな複雑な状況での帰順説得は困難を極め、
大抵の者が尻込みするのだが、
播磨の後方連絡線確保の功績に眼の眩んだ
官兵衛は任務を引き受け、そして失敗する。
否それどころか日照通風の悪い牢獄に繋がれてしまう。
結果、官兵衛が救出された時は髪が半分以上抜け落ち、
片足が伸びない不具者となってしまう。
尤もこの時の失敗で功名の炎が一時的に沈静化した官兵衛は
病死した半兵衛に代わって次第と秀吉の帷幄で重きを為す様になっていった。
今日でもしばしば演劇や小説の題材となる『本能寺の変』が勃発した時、
官兵衛は織田家隋一の大軍団に成長していた
秀吉陣営にあって『主席参謀』の地位を不動の物としていた。
その証拠に直前に難儀していた備中(岡山県西部)高松城攻めに対して
彼の提案であり、莫大な費用が掛かる
「水攻め」がすんなり採用されている事でも立証される。
(尤も兵糧攻め自体は秀吉の十八番だったが)
一旦は主君の死に深く悲しんでいた秀吉だったが、
官兵衛の励ましと献策によって立ち直ると敵対していた毛利と和議を締結、
素早く上方を占領しつつある明智軍を撃破して
信長亡き後の天下取りレースに名乗りを上げる。
この後も官兵衛は織田家保守本流との対決(柴田勝家)に備えて
その智謀を存分に発揮していたと予想される。
この間の働きが文献には明記されていないのは
恐らくは本能寺の変を知らない振りをしていたであろう
毛利との事後交渉が発覚するのを恐れての事ではないだろうか。
(彼等の情報網は世間が思っている以上に深く、そして賢明である)
そんな八面六臂な活躍をしていた官兵衛だったが
その恩賞は智謀と功績と名声に比較にならない程に低いものだった。
これには太閤がその巨いなる才脳を恐れたとか
軍監として出向いた戦での失態が原因とも喧伝されているが
案外、次の逸話が真実の一端を語っているのではないか。
『ある時、囲碁に熱中していた官兵衛が豊臣政権の秘書室長である
石田三成の呼び出しに応地ない事があった。
太閤からの叱責を恐れた官兵衛が出家して如水と名乗り、
家督を長男に譲った』
この事件は巨大化していく『豊臣政権』にあって組織に馴染めない
一匹狼的性格だった官兵衛はその武断的な性格と立場もあって
(彼は知的ではあるが官吏ではない)
事実上の『左遷』でを暗示しているのではないか。
太閤秀吉の死後の政界再編成の際、
官兵衛は自身での天下取りの野望に身を焦がす。
長期化する中央の争いを見越して所領のある
九州全土を纏め、乾坤一滴の大勝負を仕掛ける。
結果はたった一日でケリがつくのだが、
もし官兵衛の目論み通りに長期化すればどうなっていたのだろうか?
シュミレーション小説の題材としては面白そうだが、
やはり彼の目は薄いと思わざるを得ない。
残念ながら彼には巨大組織を動かすだけの器量はない。
相手が江戸幕府の創始者にせよ、豊臣政権の能吏だったせよ、
『善戦はするが最終的には敗戦』と言う所ではないだろうか?
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