『緊張』


後世の視点から見れば本間修一郎龍長率いる
『黒一天』の大零山襲撃は極めて重要な意味合いを持つ。
それまでは彼は敗戦続きの西管家に合って
ぶつくさ不満を言いながらも孤軍奮闘を続けていた
一介の戦闘隊長に過ぎなかったがこの働きによって歴史の表舞台へと登場する。
だがそれは体系的に歴史上の大小様々な事件を整理して
俯瞰出来る者のみが知る特権である。
少なくとも襲撃を決意する前後の当事者にその様な意識はなかった。
何故なら当時の修一郎には憎悪の炎を燃やす眼前の敵よりも
責任を転嫁する者がいない心の重圧との戦いの方が重要だったからである。

南部とは言え身の引き締まる寒気が襲うようになってきた十二月下旬、
洋駿から『黒一天』の面々が小集団に別れて夜の闇に消えて行く。
川沿いに立ち、頬で冷たい風を受けながら軍団長は沈思黙考を続けていた。
−もう少し準備を整えてからにしたかったんやけどな、
 甚助が大零山で小室と三田衆の起請文を見つけた以上はしゃあない。
 先にこっちから手ぇ出して、拠点潰さなにゃこっちが危ない。−
じりじりと胸から競り上がる表現し難い圧迫に耐えながらも
修一郎は冷静に頭を働かせる。

−問題はどれだけ中州の拠点が持ちこたえられるかやな−
大零山の麓であり、喉笛に当たる拠点に陣地を拵える。
と言っても向こうも馬鹿じゃないから出来あがった頃を見計らって
襲撃を仕掛けるのは目に見えている。
それを利用してこっちは裏手に回らせた部隊で奇襲をかける。
同時に随時に動ける部隊も確保して不測の事態に備える。
周辺の地帯を念入りに調べ上げ、恵有と何度も練り直し、
平左・弥四郎・権八とも協議を重ねた作戦案に自信はあった。

しかし不安が全くない訳ではない。
今までの三倍増しの二千五百が一矢乱れずに行動するとは到底思えない。
苛烈なまでの訓練ではどうにか使える様になったものの、
実戦の緊張にどれだけ耐えられるかはやってみなければ解らない。
恐らくは取りこぼしや齟齬が発生するであろう
今回の作戦に備えて様々な予防処置は講じてあるが、
それもこれも全て操船技術に優れた彼等あっての事である。
『黄海社中、林田和馬様がお見えになられました』
「うん、通してくれ」
実に都合の良い来客だった。


「では三つに分けた方が宜しいですかな」
長髪を後ろに束ねた和馬が尋ねる。
『三つ』と言うのは船団の数を差し、
間断なく往復を繰り返す事で通信と補給を欠かさない
体勢を整える事を意味する。
「そうして頂けた方が有難い」
修一郎が過酷な働きを受け入れた事に謝意を表す。
川の流れに乗れる下流はともかく、流れのきつい上流に
様々な物資を乗せて運搬するのは社中でさえ重労働であった。
「何分、忙しく働いて貰う事になろうが応分の鳥目は支払いたいと思う」
実はこの地点で既に修一郎の懐は借金の申し込み書で溢れていたのだが、
そんな事はおくびにも出さない。
「鳥目分の働きは期待させて頂く故、期待して頂きたい」
対等の立場に立つ者同士に漂う『友情』とも呼ぶべき空気が二人を包み込む。
共に独創的な組織を作り上げ、しばしば『似た者同士』と評される
彼等は当事者以上に互いの立場を理解していたのかも知れない。

「彼もなかなかに大変な事じゃ」
「はっ?」
先日の酒宴以来『寝取られ男』との不名誉な通称が定着しつつある
−弥四郎に取っては撃墜した数多の星が増えただけに過ぎないが−
若者はそれでも気を奮い起こして快活さを装っていた。
「儂も最初の商談は緊張したきに。これでほんまにええのか?
 なんかえらい間違いは起こしちょらんか?金はちゃんと払ってくれるんか?
 一段落着くまでは一睡も出来んかったきに」
「そんなもんですか」
如何なる事態にも悠然と構えている数馬の日常を知る若者としては
『意外』との思いが禁じえない。

「ああ、だから今回は儂等が余計に気張らにゃならん。
 そうやってお得意様の信頼を得ていくのが商いと言うものよ」
和馬は信用する若者に頂点に立つ者のみが持つ不安の一端を洩らした。
和馬は何故かこの若者を気に入っていた。
仕事振りは率直にいって平凡であり、特に優れた力量を見せる訳ではない。
だが不思議と衆を纏める力量に優れ、補佐役として何かと重宝している。
−やがておまんにもそう言う日が来るかも知れん−
その予感はこの若者の名前である『榊 幸太』が
『黄海社中』の後継者として歴史に名を止める事で立証される。


和馬が自分の後継者に意中の一部を洩らしたのと同様に
修一郎も自分の心中を漏らす事があった。
但し彼の場合は後継者ではなく、
この地点では恋人兼有力出資者であった雪香に対してである。
筆不精にして胥吏らしからぬ悪筆だった修一郎は
殆どの文書に花押(サイン)だけで済ます事が多かったのだが、
彼女に対してだけは自筆で手紙を送っている。
後年『紅雪文書』と呼ばれ、
彼の研究には必ずと言ってよい程に引用されるこの文書には
彼の率直な心情が赤裸々に語られている。

『今までは士大夫の阿呆共に文句を垂れていればそれで良かった。
 だが今回からは不充分な準備ながらも余計な指図が入らない。
 従って敗北や失敗の責(任)は全て自分に降り掛かる』
愛する女性に送る手紙とは思えない程に弱気に満ちた文面だが
この時点での修一郎の評価は『面白い戦い方をする奴』と言う程度で
『指揮官』としての評価は良く言って『未知数』だった。
そんな弱い立場では部下達にも不安な内心を洩らせる訳もなく、
自身の暗い生い立ちを受け止めてくれる強さを持った
雪香にしか縋れる存在がいなかった。

文面は更に続く。
『とは言え、胥吏に過ぎなかった自分が全体の指揮を取るとは
 如何に百鬼夜行の世とは言え、なかなかに巡り合えない舞台でもある。
 例え舞台が場末の小舞台であったとしても主役である事は事実である。
 小藩の郷士出にして武芸の心得もない自分が負け癖のついた
 胸糞悪い士大夫共の猿真似をしても面白くも何ともない。
 自分には自分にしか出来ない茶を立て、詩を詠み、花を生け、舞い踊る戦と言う
 表題の雅道を表現できればとも思う』
無表情で『特徴のないのが特徴』と評される灰汁のない顔立ちの裏側で
修一郎は様々な思いを巡らせていたのである。


総指揮を取る修一郎は最前線の中州ではなく垣根川の対岸に本陣を置いた。
臆病故に安全な場所を選んだ訳ではない。
修一郎は自らの仕事を『戦争に勝つ事』と考えており、
『戦闘に勝つ事』とは考えていなかった。
前線の指揮は平左・弥四郎・権八に任せ、後方の補給は平九郎に差配させる。
敵味方の状況は甚助に把握させて、自分は恵有と共に全体の判断を下す。
これが『黒一天』の不動の配置であり
−役者自体の変更はあったが−
修一郎は生涯この配置を変更する事はなかった。

季節外れの藪が寄ってくるのを払いながら、
権八率いる黒一天三番が裏手の草原を音もなく進んでいった。
松明を燃やさずに月明りのみを頼りとして、
武具には全て襤褸くずを巻いて気付かれない工夫をこらしていた。
事前の情報で道中に仕掛けられた鳴子は全て把握していた為に
三田衆に気付かれる事も無く背後に回り込む事には成功した。
しかし黒墨を顔に塗り付けた権八は何度か太い息と共に
体内に宿る不安を吐き出す。
−中州が潰れりゃ、こちらは糸の切れた凧だて−
三日月を眺めながらの心中の独語であった。

「早くせんか」
物資の運び出しの様子を見ながら肥満漢は独語する。
敵前での土木作業と言う危険極まりない作業に対する緊張は
肥満漢の目に人足夫丸の動作をひどく遅く写させた。
実際は『ここが先途』と気合を入れている彼等は
−通常の倍の鳥目が約束されている事もあるが−
客観的な観点から見れば実にきびきびと働いているのだが、
緊張と焦りは冷静な視点を奪い去っている。
弥四郎は幾度が大声で怒鳴りたい感情に身を委ねかけたが
敵前でそんな阿呆な真似は出来ない。
「鉄砲陣地だけでも夜明けまでにこさえにゃならんわい」
だからそれまで中空に浮かぶ三日月よ。沈まんといてくれ。
修一郎に叱責されている時以上の脂汗を覚えながら、
知らず知らずの内に僚友と季節はずれの月見をしている弥四郎だった。


 

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