樹州の初夏を彩った御家滅亡の悲劇を洗い流さをんと
度々の豪雨に見舞われる様になった六月の下旬。
精神上の衣を『黒一天軍団長』から『樹州知事』へと着替えていた
本間修一郎龍長は書類の指示に追われる忙しい日々を送っていた。
「今年度分の予想収穫高にござりまする」
担当者である太助が樹州八郡の収穫予想分を計上した用紙を差し出す。
「約三十万石ってところか」
去年の出目が十三万ニ千八百石だったので米収入は倍増した事になる。
「詳細は数字につきましては、雨量次第の部分がございますが
今後も隠し田が発見される事が予想されまする故に、
三十の大台を下回る事はなかろうかと愚行致しまする」
二日前まで天上から降り注ぐ水滴を凌ぐ蓑を被って各地を出回っていた
−勿論、黒一天の警護付きだが−
太助の推量に誤りは少ない筈だ。
「ま、でもあんまり厳しくして蟷螂の斧でも奮われてはかなわぬでの。
その辺りは『差出』の数値に深く入り込まぬこっちゃな」
一年にも満たない短期間に大零山・鹿浜・安知久と続いた戦は
黒一天配下の者共は精神的に疲労を溜め込ませている。
今しばらくは『勇名』利用した虚仮脅しを基本にすへぎだろう。
「『竿入れ』の時期に非ずと?」
「・・・奴等が俺に心服していると思うか。
いや為政者に心服する農民なんてこの世におるかい。
奴等は小豪族同様に面従腹背でしぶとく生き残るのよ。
そないな連中には『竿入れ』に応じた方が実入りがええ体制を作らんとな」
胥吏であった頃よりぼんやりと考えていた構想は
専業の兵達を率いる身となって以降、
次第と明確な形を取り始めたが今はまだその時期ではない。
「それと堤防の方は大丈夫かの」
本来ならば補修すべき箇所のある堤防も安知久の一件で手付かずである。
「所々に補修したき分はございますが、
土地の者が申すには雨量自体は例年並みとの由にござりまする」
この件に関しては問いを発した方も答えた者も
樹州在住暦一年にも満たない身なので『土地の者』の発言を信じるしかない。
「収穫米が減ったら減ったで銭の売り買いで儲けて、
手打ち金に仕立てる手もあるんやけどな」
もう一つの課題を思いを馳せる修一郎であった。
「それで国王家と高幡の荘園の境目の件は目処らしき物は見えたか?」
現在、樹州知事の最も気に掛かる課題は
利害が複雑に入り込んだ樹州北部の境界線に関するものである。
「残念ながら、未だに」
太助の傍らに控える宮内太郎頼敏は丸眼鏡を光らせて応答する。
「収穫が近い事もあって双方とも『正統な権利書』を
小生に提示致しまして、互いに一歩も引き下がる様子は見せませぬ」
国王家の意向に従うのは武家や騎士であって、
『名士』と評される元老院の議員達に取っては
格上である事は意識しても利権を遠慮する様な相手ではない。
「面倒よの。うちはどっちとも名前を借りた立場やさかいに
一方の肩入れをするっちゅう訳にも行かへんしな」
双方の顔を立てねばならない難しい立場である。
「こう言う時は高等法院の存在が求められますな」
修一郎の左脇に座る補佐役が会合に新たな方向性を与える。
「まったくや。普段は『神慮』とか言いながら
公証人を通じて袖の下を厚かましく要求する鬱陶しい存在やが、
奴等の降す『公平な』裁定が世間への説得力を持つからな」
この時代の法曹観念は宗教の色彩が濃く、
条理ではなく賄賂の金額と裁判官の意向次第で白黒が決められていた。
「故に天上の御神もこの地に祝福を与えかねている様子で」
皺の多い容貌には自嘲気味の笑顔が浮かんでいる。
宗洋の宗教力学は『清貧を持って秩序を打ち立てよ』と
支配者階級(士大夫)にとっては
都合の良い戒律を説く十字教が主流で、
『神の与えた役割を為せ』と商工業者の欲望を刺激する
回白教が対抗馬であるが、
どちらも蛮地と目されるに河南への浸透度は低く、
当然、利害を調整する裁判組織の設立にも至っていない。
「それと噂の緑帽教がそれとなく入り込んでいる様や。
今の所は火種になるような動きは見せてへんようやが、
境界線で下手打てば、つけ込まれるかも知れへんから気ぃつけなな」
樹州知事が境界線の件を重視するのは
『士大夫打倒』を唱え、江北管領家を事実上の滅亡に追いやった
情熱的な宗教団体の存在が樹州でも確認されているからである。
「その通りにございます。
奴等は叛徒共を炊き付けるのが上手にございまる故に」
彼等のお陰で辛酸を舐めた平九郎の意見に皆が頷いた。
「龍長の心遣い、余は嬉しく思う」
久し振りに見る西管家の当主・仙波忠三郎雅恒は
相も変らぬ公家風の衣冠に身を包み、
脂肪と緊張感の無さに包まれた容貌に満足そうな笑みを洩らす。
「僅かばかりの米穀ではございまするが、
御館様のお心に叶えば小生としても嬉しい限りでございます」
さっぱりとした肩衣小袴が檀上の人物とは別の意味で似合わぬ
猫背の青年は盛り下がるばかりの感情をおくびに出さぬ様に無表情を貫く。
−まったく、収穫前のこの時節に四千石も無心するたぁどういう了見や−
只でさえ、打開策の見つからな境界問題で頭を痛めていると言うのに
姫島から届いた急使の内容は米穀の無心であった。
「収穫前のこの時節ならば米も高く売れようの」
これは修一郎ではなく、勘定奉行への問い合わせである。
「その通りでございまする。玄武、あ、いや樹州知事殿の
武略に拠って西管家は益々勢威を張りましょうぞ」
−勢威でなくて、窮地を脱しただろ−
半年振りに見聞する西管家の根拠地の荒れ具合は予想以上だった。
士大夫や有徳者の広壮な屋敷が立ち並ぶ地域でさえ
物乞いや強盗の類が悠然と闊歩し、外出には物々しい警護が欠かせない。
街中で最も活気のある筈の中央市場でさえ、
閑古鳥が聞こえぬ鳴声が樹州知事の耳朶に盛大にこだましていた。
−あと三日遅かったらほんまに野宿するとこやったで−
一年程前に甚助が河南事情を披露した宿屋も
治安と景気の悪化によって商売が思わしくなく、
四日後に店を畳む事を決断していたのである。
−まったく、御館様は何を考えとるんや。
洛安の猿真似なんぞにうつつを抜かしおって−
当初は目映いばかりの後光を発していた主君の姿も
王都・洛安の雅な様を見聞した身では
田舎の風が抜け切れない垢抜けなさが目に付いてしまう。
いや、それ以上に配下や庶民達に苦しい思いをさせながらも
尚も姿勢を改める気配を見せぬ様には頭の構造を疑ってしまう。
−ま、ほんでも今は西管家の威光を使うしか手立てはないからな−
修一郎が此度の姫島呼び出しに応じたのは
ある思惑を内に秘めてのことである。
「ところで御館様。樹州知事は何やら御願いの儀があるとの事。
ここは彼の者の忠義を考えて一つ聞き入れては下されぬでしょうか」
七月の暑気に汗を滴らせる勘定奉行が賄賂分に相応しい介添え役を果たす。
「ほう、龍長でも難儀な事はあるみたいじゃの」
嬉しそうな表情を隠し切れないのは、内容を承知しているからである。
−こいつ等の猿芝居に合わせるのは腹立たしい限りだがここは我慢すんべ−
修一郎は体内の怒りを封殺しながら、言上する。
「はっ、小生がお預かりしておりまする樹州では、
現在、国王陛下と高幡殿と申す元老院の重鎮が
荘園の境界でいささか穏やかならぬ間柄となっておりまする。
小生も全力を尽くしておるのですが、
何分にも郷士の出に過ぎぬ軽輩では御両所の裁定など思いも寄らねば、
ここは御館様の勢威と御知恵を拝借した存じまする」
「ふむ、それは難儀よのう。勘定奉行は何か良き案は無きものか」
関西管領の憂鬱そうな表情も台本通りである。
「何分にも御両所にも士大夫としての意地がございます故に、
容易には引けぬ立場と愚考致しまする。
ここは御館様が御自らが裁定に出られるが良き手立てかと」
「されど高幡殿はともかくとして、
臣下の身に陛下に諫言致すはちと心苦しいの」
形骸した君臣秩序において仙波家は国王家の重臣と言う位置付けなので、
一応は憂悶の心情を見せておかねばならない。
「されど逆臣・東管家如きにこの様な大役が務まるとは思いませぬし、
増してや北管家があの体たらくでは御館様以外に調停役は務まりませぬぞ」
「小生も同意致しまする。
事は樹州のみならず国王陛下と元老院の間柄に関ります故に、
御館様以外に事を丸く収められる方はおりませぬ」
発案者として修一郎も白々しい芝居に参加せざるを得ない。
「ふむ、両人がそこまで言うのならば致し方ない。
ここは敢えて心を鬼にして国王陛下と高幡殿に諫言申し上げよう」
「ははっ」
感極まったかの様に平伏しながら、樹州知事は頭を廻らす。
−さて、どの辺りで折り合わせるか−
事態はまだ終結の方角に歩み出したばかりであった。
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