現在、私が主催しているホームページに掲載している
『濃いかも知れない』の母体となっている
クラブチームは既に21年目に突入しているのだが、
現在の監督は眼鏡を掛けたスコットランド人である。
彼とはその前年からの付き合いなのだが、
モデルとなった人物同様に取り立てここが凄いと言う特徴はない。
だが逆にここがイマイチと言うと言う部分もない。
『クセのない計算の出来る監督』
一言で言い表せばそんな感じだろうかか。
そしてその資質はタフでレベルの高いプレミアシップと
各種のカップ戦を合わせて年間60試合にも及ぶ激戦を勝ち抜く為には
必要不可欠な資質なのだろうか。
『サカ特』ではファーグソンと表記されるスコットランド人は
1941年の大晦日に生を享けた。
表には現れないが今尚、厳然とした階級社会であるイギリス国内で
(最近は少しずつ緩んでいるようだが)
労働者階級の家庭に育つ事は即ち大学を経ずして
実社会のデビューを果たす義務を有している。
当然、アレックス少年も工具作りの見習いと言う形でデビューを飾り、
40年間、クライドの造船所に勤めた父親同様に勤勉且つ実直に働いた。
尤もアレックスの場合、デビューから6年後には職場を
ピッチの上に変えていたのだが
選手としてのファーガソンはスコットランド随一の名門、
レンジャーズでセンターフォワードを務めたぐらいだから
まず一流と評して良いレベルだったのだろう。
その事は74年の引退後、数年で監督就任した事実が立証している。
(ネームバリューを持つ選手は引退後も優遇される)
尤もアバディーンの黄金時代を築き上げた手腕は
彼の監督としての資質に拠るものである。
レンジャーズとセルティックの2強がのさばるスコットランドにおいて
リーグ優勝3回・カップ戦4回・リーグカップ1回。
特に83年にはレアル・マドリーを破ってカップウィナーズカップを、
さらにはチャンピオンズカップ覇者であるハンブルガーSVとの
スーパーカップをも制したい実績には敬意を払うしかない。
ファーガソンは86年にアバディーンでの実績を評価され、
スコットランド代表監督としてメキシコW杯に臨んだ事がある。
尤も成績の方はチーム自体のポテンシャルの低さに加えて
リリーフ的な登板であった事から
(前任者が急死)
チームを把握するには至らずに予選リーグ敗退に終わっている。
傍目から見れば成功の可能性が低い監督就任のオファーを受けた選択は
(この時、スコットランドが入った組み合わせは
デンマーク・西ドイツ・ウルグアイの『死の組み合わせだった』)
監督としてのキャリアに泥を塗るだけの愚かな様にさえ見える。
だが誇り高き『ハイランダー』であり、
『母国に』並々ならぬ敬意を抱くファーガソンは
オファーが届いた際は断る事は出来なかった筈だ。
後年のあるエピソードを考えると寧ろ喜んで引き受けたのではないか。
そして当時、二部降格の恐怖と戦っていた
マンチェスターユナイテッドの関係者はその事を理解していたに違いない。
でなければ1986年11月に始まる両者の蜜月が
現実化する事もなかっただろうから。
そんなアレックス・ファーガソンと
マンチェスター・ユナイテッドに取って80年代は我慢の時期だった。
当時のイングランドはフーリガンの愚行によって
欧州三大カップの出場が禁止されており、
どのチームも国内の試合に集中出来る環境が整っていた。
当然、再建途上のクラブチームの付け入る隙は少ない。
だがその不利な状況を逆手に取ったかの様に
ファーガソンもクラブも焦る事なく、
現在の強さの基盤となるユース育成システムの再強化に取り組んでいった。
両者の初めての成果は4年後のFAカップ制覇と言う形で報われる。
これは単に監督交代の恐怖と誘惑に耐え抜いた『御褒美』ではなく、
未来の栄光に繋がる重要なタイトルだった。
何故なら翌年に参加が認められた
カップ・ウィナーズ・カップの制覇は
(カップ戦の覇者が参加可能、但し現在は廃止)
このチームの視線を再び国外に振り向かせる要因となり、
その方向性がエリック・カントナの獲得に繋がるのだがら。
それからの栄光についてはトヨタカップ来日に際して発刊された
ファーガソンの著書の方が詳しいのでここでは敢えて取り上げない。
最後に事ある事にスコットランド人の誇りと栄光を口にする
ファーガソンらしいエピソードを紹介したい。
それは三冠を達成して『サー』の称号を授与された時の話である。
エリザベス女王と会見する際、
彼は『ハイランダー』に対する英国王室への感情を一切考慮せずに
(ハイランダーはイングランドに併合される際に徹底的に抵抗した)
スコティッシュの正装であるタータンで臨んだという。
何とも誇り高きスコットランド人らしい逸話ではある。
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