設立当初はバブルの影響を引きずっていたJリーグも
初物の興奮が醒めるにつれ右肩上がりだった成長曲線は水平となり、
地域によっては下がり始める地域も現れた。
私が住んでいる大阪・関西などはその典型的なケースで
フットボール人気以上のチーム数が観客の分散を招いていた。
尤も内容も結果も出せない当時の3チーム(ガンバ・セレッソ・サンガ)に
相応しい光景だった事は残念ながら否定出来ない所であり、
キャプテン翼・マラドーナの影響でこのスポーツに心奪われた
私でさえ安くはないチケット代を支払う気分になれなかった。
だがそんな私にも『こいつなら金を出しても良い』と
思わせるプレイヤーが出現した。
前年のオフにひっそりと来日し、
下位に喘ぐガンバ大阪のユニフォーム纏ったパトリック・エムボマは
しなやかな身体能力と観客を惹き付けるプレーで
瞬く間にマスコミの注目を集め、まだ金子達仁の良きテイストが残っていた
サッカーダイジェストは『ナニワの黒豹』の異名を提供した。
この頃からフットボールへの情熱を失いがちとなり、
看板倒れ気味だった初代とは違い、
二代目は屋号の所有権を唯一無二であるかの如く活躍を示した。
覚醒真近の中田英寿が主軸となりつつあるベルマーレとの開幕戦で見せた
曲芸的な『ツー』トラップボレーシュート。
この頃から才能と組織バランスの悪さが目立ち始めたマリノス戦では
川口と井原のプライドを打ち砕くドリブル突破からの1ゴール2アシスト。
そしてアルディレス体制が熟成を帯び始めたエスパルス戦では
豪快なロングシュートを披露して開幕3連勝の立役者となる。
その八面六臂的な活躍は地上波で唯一生き残ったフットボール専用番組
『スーパーサッカー』がベストプレーランキングの上位に
その怪人的プレーを立て続けに取り上げていた程である。
残念ながら当時から貧乏暇無しだった私はテレビ画面から通じてしか、
その凄さを堪能できなかったのだが同時に一つの疑問が生じていた。
何故、彼はボスマン・ルールによって金銭的魅力が喪失した
極東の地に左遷を選択せざる得なかったのだろうか?
『監督の構想外』
97年の春に実施されたナビスコカップでのパフォーマンスが評価され、
急増するインタビューでの『ナニワの黒豹』の来日理由である。
実際、エムボマが所属していたパリ・サンジェルマンは
フランス随一の格式を誇るクラブチームであり
(その割には優勝回数が少な過ぎ、内紛騒動が多過ぎるのだが)
当然の様に各国の代表クラスが顔を揃える。
そんな中では前年度に(95〜96年)中堅クラブを
UEFAカップ出場権を与える活躍を示したとは言え、
国際的には無名の一言で片付けられる彼に
出番が少ないのは仕方のない所ではある。
(現在、エスパニョールで苦闘する西澤の様に)
尤も冷静な視点で見ればこの時の監督の決断が間違いだったとは言えない。
10代前半からの育成システムが整備されているフランスにおいて
(エムボマはカメルーン国籍だが2歳からフランスで暮らしている)
大学受験をどうしようかと悩む年代に入ってからキャリアをスタートさせた
エムボマの経歴では大抵の監督が起用を躊躇うであろうし、
残念ながら当時のエムボマが同時期の『リベリアの怪人』の様な
戦術無用のパフォーマンスをフランスや
欧州チャンピオンズカップで示せなかったのも事実である。
その傾向は97年にJリーグ得点王となり
欧州への復帰を果たした現在も変化がない。
カリアリでも当初はクビ寸前の貧弱なパフォーマンスに止まり、
(その後は何とか持ち直したが)
今シーズンから移籍したパルマでも現在はサブに止まっている。
とは言え、元々高い身体能力に加わった一定の戦術理解は
『規律』が皆無であるカメルーン代表において
彼を必要不可欠の存在に押し上げている。
フランスワールドカップこそ不運の連続で予選リーグ敗退に終わったものの
(開幕直前の主力の骨折と予選リーグ最終戦での怪し気なゴール取り消し)
昨年のアフリカ選手権とシドニーオリンピックを共に制覇し、
(因みにカメルーンが五輪で金を取ったのは始めてとか)
現在行われている日韓W杯予選でも本選出場は間違いなしと目されている。
そしてその時、心身共に成熟して文字通り代表の中核と納まっている
エムボマがどの様なパフォーマンスを見せるだろうか。
恐らく、数字的には平凡の域を出ないであろうし
『大会を象徴するスーパープレー』を披露する事もないだろう。
だが彼は『不屈の獅子』のバランサーとして、
献身的な動きで『スーパーイーグルス』とは対照的な
まとまりある好チームを引っ張って
アフリカの歴史に新たな1ページを書き込むのではないだろうか。
あのロジェ・ミラの様に。
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