十数里の彼方で史書に『安久知戦役』と呼ばれる
会戦の第一幕が閉じた頃、
闇と静寂に覆われた大地を数人の男達が音もなく疾走している。
息一つ切らさず、一滴の汗も流さず、
面構えには人としての感情が全く見受けられない様は
天空から何方の神なり悪魔なりが人間の目に見えぬ
糸によって操っている人形を連想させた。
やがて男達は人気のないあばら屋で足を止めると、
所定の方法に従った帰還の合図を送ると片膝をついて上司を出迎える。
「探知できたか」
崩れ落ちそうな室内からうりざね顔が憂鬱そうな表情で尋ねる。
挨拶も前置きも入れないのは堀田甚助が
部下をぞんざいに扱っている訳ではなく、
必要事項のみ言の葉に出すのが彼等の流儀だからである。
「およそ千五百程かと」
何の感情も入っていない瞳に見つめられた男達は
自分達も感情を持つ人間である事を思い起こさせる動悸を覚えさせた。
「『およそ』だの『約』だのと言うのは目利耳聡者が口にする台詞ではない」
自分でも厳しいと思うが、
諜報組織にはこの手の緊張感が必要である事は承知している。
「小荷駄や物見の人足達は既に把握しておろう」
「はっ、されど羽戸川には自弁参加の日雇兵(傭兵)共が着陣している由」
「ほう」
初耳の情報に細い眉を釣り上げる。
「博方にその様な余裕はないと思っていたが」
「どうやら南海からの支援がある様子。長瀬の荷駄も確認されております」
博方を隔てた南海諸島を制する海賊達が肩入れしているとは
彼の者達は余程の好餌をぶら下げたらしい。
「わかった。引き続き調べよ」
「はっ」
男達は再び闇へと消えていった。
「これにて良しか」
雑多な情報を一纏めにした報告書に自身の花押を書き込み、
さらに極細の針で数ヶ所を突き刺す。
「これを軍団長殿へ」
彼の静かな戦いはまだまだ続く。
薪を惜しみもなく消化する黒一天の本陣は不夜城の如き明るさと、
途切れる事無い使い番の馬蹄によって不夜城の賑わいを醸し出している。
無論、この活気は夕暮れ時に行われた遭遇戦の結果が貢献している。
「ほうか、長瀬の連中も御登場かい」
汗を慕う薮蚊が払い落しつつ、
甚助からの報告を一読した修一郎は苦笑を禁じ得ない。
−やれやれ、どうも黒一天は敵を増やす磁力があるらしいわ。
いかに手立てを尽くそうともどっかで
『不意のお客さん』が出てくるんやもんなぁ−
玄武時代、自分達の預かり知らぬ所で苦労を背負わされた
修一郎は想像外の危険要因の出現にもうろたえる様な事はない。
寧ろ突発した危険要素を楽しむ強靭な精神構造の所有者だった。
「如何致しましょうや」
筆頭参軍使は予想外の事態に顔色が強張っている。
「如何する?纏めて叩くだけやないかい」
勢いを掴んでいる内は粗雑であっても積極的に動くべきだろう。
「されど二番だけでは両勢は支え切れませんぞ。
戦は生き物にござりますれば・・・・・・・」
「だから俺が援護する。本陣を二番の所まで動かす」
まるで夕食後の酒を飲むかの様な気楽な口調で方針の変更を決定する。
「心配すな。どうせ自弁参加の連中なんぞ有利な時しか働かんわ。
弥四郎御自慢の『伍』」の戦働きを見る好機と考えよ」
尚も不安気な筆頭参軍使に対して
黒一天軍団長はこの場に不似合いな話題を切り出した。
「・・豊五。お前は独身やったな」
「は、はあ」
突飛な質問に筆頭参軍史は呆けた表情を垣間見せる。
「そやさかいに弥四郎が会得しとる『理外の理』が把握出来へんのや。
相手が逸り立って押さばすっと引いて、弱気に引いたら強引に押す。
こうして主導権を確保せにゃ戦になんぞ勝てるかいな」
男女の駆け引きを口にして説得力があるのは妻帯者の特権であろうか。
「ま、なんぼ平左の健脚でも十里単位の往復はきついやろ。
翌朝まで安堂への虚仮脅しも兼ねて権八んとこで
寅の刻(午前四時)ぐらいまでは休ませる。
それまでは羽戸川と長瀬の逢引の様子は俺と弥四郎が見届ける」
「白の三番との由でございます」
本陣からの伝令が殺戮の宴の余韻に浸る一番と三番に届けられたのは
戌の刻(午後10時)を過ぎた辺りの事である。
「待機とは解せんな」
干肉を肴に濁酒を味わっていた平左が呟く。
「安堂を叩くなら追撃、そうでなければ帰陣だと思うが」
相方を務めていた権八も同調する。
「一番においては未明の長駆けに備えてよく休む様に、との事でございます」
表情一つ変える事無く言い放った使い番は
「それではこれにて御免」
と一言残して去っていく。
「羽戸川も案に相違して機敏だがや」
一瞬にして二番が置かれている状況と修一郎の意図を察知した三番頭は
軍団長同様の精神構造の持ち主である事を立証する苦笑いを見せている。
「権八っつぁんは笑うだけで良いが、
人使いの荒い御方に仕える身としては難儀だわい」
平左の表情も『苦笑い』の見本と化している。
「騎馬武者はともかくとして、足軽と鉄砲放ちはきつかろう」
先程は上手く拍子を踏めたが此度はどうか。
「儂が思うに次の使い番は騎馬武者だけに伝えるんじゃねぇか」
手拭いで滴る汗を拭き取りながら、権八は推量を口に出す。
「ふむ、確かに『伍』が健在の二番に本陣を動かすとならば、
未熟者の一番の鉄砲放ち達は不要だな」
黒一天においては一人前の鉄砲放ちと認められるのは
火縄・燧石双方の取り扱いに優れた者である。
「じゃあ由六と次右衛門を紹介しとくか」
平左は立ち上がると大声で叫ぶ。
「一番の鉄砲組と足軽組の両組の頭はこれに!!」
「はっ」
幔幕の外に控える使い番達が立ち上がる影が映し出される。
「ちと士大夫の気が抜けぬ輩共だが心根は良き奴じゃ」
一番頭は片笑窪を浮かべて三番頭の面を眺めた。
「軍団長自らの御出ましだわ」
本陣からの使い番が手渡した書状と
縦の色彩と横の番号が組み合わさった『暗号表』で
修一郎の意図を確認した家具職人の四男坊は
脂肪がたっぷりついた丸顔を歪ませる。
「頭、と言うことは儂等の出番ですかい」
眼帯を掛け、盗賊の如き野性味のある風貌を持つ馬廻りの一人が放った
言葉の響きに生死を狭間に立たされる恐怖感はない。
「おうよ、楽しい戦の始まりだわさ」
心の底からの笑顔は酒・飯・女の何れに没頭する時よりも楽しそうだった。
夕方から宵の口にかける戦闘がまるで幻影であったかの様に
満月が照らし出す夜の草原は神秘的であった。
無論、慌しい喧騒を奏でている黒一天の本陣の者共は
猫背の青年を覗いてその景色を愛でる余裕はない。
『雪香にも見せたいものや』
いくら最上位者であっても何でも口にして良い訳ではない。
その心構えは玄武時代、白けた言動で士気を萎させた
戦奉行を筆頭とする『あほんだら』達から取得したものである。
「軍団長殿、各組の行進準備が整いました」
足軽・騎馬武者・鉄砲放ち・小荷駄・黒鍬・使い番からなる
六組の『番』が行進可能な体勢を整えた事を告げたのは
恵有と共同で黒一天の教範を纏め上げた豊五である。
「ほな行こうか」
散歩にでも出向く口調で軍団長は戦場予定地への移動を告げる。
「ま、俺と弥四郎の鉄砲放ちの競演っちゅうのも面白いやろ」
別に自信満々で宣言するでもなく、
はたまた不敵な笑みを浮かべるでもない。
それは数刻先の既定事実を淡々と告げる力の抜けた様は
却って豊五に勝利を確信させた。
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