『足利 直義』
『二頭体制』を採用する政権なり組織が 強靭な生命力を維持するケースと言うのは殆どない。 同等の権限を持つ人物が並び立てば内部で勃発する 騒動の当時者の一方が必ずどちらかに擦り寄り、 (争いのない組織は人間が形成する組織ではない) もう一方も好むと好まざるを関らずに一方の実力者に接近せざるを得ない。 そこには個人の愛憎の感情が割り込む余地はなく、 臨界点を達した鬱屈はやがて『内乱』と言う形で爆発する。 今回はある人物を通じて、 二頭体制を布いた珍しい武家政権を眺めてみたい。 今年の大河ドラマではまだまだ雌伏の時を過ごしているらしい (実は全く見ていない) 源氏の名門・足利氏は建武の中興において浮上のきっかけを掴む。 それまでは心ならずも鎌倉政権の命に服属していた彼等は 悩む棟梁の高氏(後の尊氏)、決起を促す同腹の弟・直義と言う 定番の茶番劇で内部の意思統一を計ると、 明智光秀が本能寺を襲撃した同様のコースを辿って鎌倉政権に叛旗を翻す。 この行動自体が決定打となった訳ではないが 全国各地に荘園と有力な支族を持つ足利氏の影響力は大きく、 論功賞罰においても武家としては優遇された褒美なり役職を与えられる。 だが政権主催者の後醍醐天皇は反体制派として声なき声を糾合出来ても、 体制派として雑多な欲望を纏め上げる器量には欠いていた。 その施政方針はどう贔屓目に見ても『懐古主義』の範疇に止まり、 彼の天下ではごく一部の取り巻きのみが利益を享受していた。 逆に足利家の場合は『雄材大略』と評すべき尊氏の人間としての器量と 傑出した政務能力を持つ直義とのバランが巧妙に保たれていた。 表現を変えると理想と現実、はたまた権威と権限と言う所だろうか。 この役割分担は混沌の世情においては 各勢力の受け入れ易い体制あったのは想像に難くない。 内容としては紙一重の差であった足利と後醍醐の争いも 結局の所は前者が『順当に』勝利の美酒を味わう。 だが勝利者となった足利家にもアキレス腱は存在した。 『剣に拠って立つ者は剣に拠って滅びる』のである。
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