『ネーション』
明治十年に鹿児島の士族達が引き起こした 最大且つ最後の武力叛乱の失敗は、 未だに『国家』の概念が不明瞭だった島国に決定的な変化を与えた。 『サムライ』と呼ばれる種族達が現世からの退場を余儀なくされ、 (精神的な存在としての生命は与えられたが) 同時に『有司専制』を打倒する方針が大きく変わって言った。 武力から言論へ。換言すればより進化した価値観を提示せねばならなかった。 民権運動と称される一連の動きに際して、 理論的支柱となったのは中江兆民だった。 士族の武力叛乱が頻発しはじめていた明治七年に フランスから帰国した彼は故郷の偉大なる英傑・坂本竜馬への敬慕と ルソーのエッセンスへの理解を以ってたちまちの内に理論的支柱となり得た。 前述した明治十年の件でも彼の翻訳に拠る書物を手にした 士族が確認されているくらいなので その浸透度は短期間(実質二年)に相当行き渡っていた事が理解出来る。 尤もこの先進的な思想が急速に行き渡ったのは兆民只一人の功績ではない。 江戸時代末期には自由民権の原型たる『平等』思想がかなり煮詰まっており、 識字率の高さもあってその思想は武士のみならず、 一定の知識を持つ郷士(下級武士)・庄屋・大百姓と言った 階級にもかなりの程度行き渡っていた。 実際、兆民が終生に渡って敬慕した竜馬も実家は郷士の身分も買える程に 裕福な商人であり、船中八策もその源流は『平等』から発せられている。 (この構想が明治政府の基本ラインとなった) 明治十年以降の民権運動で問題だったのは彼等が掲げる 『平等』と言う標語の内実が兆民の様な純粋な思想家と 元士族達との間に相当の差異、否全くの別物だったと言う所たろう。 前者の『平等』は税金を毟り取られるだけだった 沈黙の階層を含めての政治的権利を求めたのに対して、 後者の平等は自分達だけの政治的権利に止まっていた。 そして残念ながら竜馬程の実務手腕をもち得なかった兆民は 現実主義者の伊藤博文や山形有朋が差配する 『有司先制』の分断策の前には手も足も出なかった。
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