紫紺の活気の良さとは対照的に咳一つ立てない漆黒の表情は凍り付いていた。
−まずい−
ここ三ヶ月程は勢いに乗ってリードする展開が多かったので
こう言ったビハインドな展開には不慣れである。
水谷は大声でゲームキャプテンに指示を飛ばす。
「慌てるな、まずじっくりとボールを回せ」
どの道、向こうは守備に人を割いた人海戦術に出るだろうから
やみくもに突っ込んでもカウンターの餌食だろう。
まだ時間が30分以上残っているのだからここで急ぐ必要はない。
「忍耐心が試されるな」
水谷は心中での独語を辛うじて抑えこんだ。
この試合初めての得点は試合の様相を単調な色彩へと染め上げた。
紫紺の壁にボールをキープする漆黒があらゆるエリアから侵入する。
右サイドで優雅にタクトを振るうゲームメーカー。
左サイドからドリブルで切り崩すサイドアタッカー。
そして中央からはバランサーが全体の体勢を整える。
しかし防戦一方となりながらもブリッツは最後の一線で踏み止まった。
ゴールライン上のクリア、反則すれすれのチャージ、身を呈したブロック、
そして驚異的な反応を見せる元・代表ゴールキーパー。
いつでも得点が奪えそうで奪えない。
観客席からは次第と焦りの色が沸き立ち始めていた。
「ねぇ将人、どうすればいいのよ」
観戦暦3試合目の姉がサッカー暦10年以上の弟に尋ねる。
「うーん、ブリッツはマンマークが徹底しているから
後ろからの攻めあがりが必要だと思うよ」
冷静に分析する弟の声は姉の激情を呼び込んだ。
「あんた何落ち着いてるのよ!就職先がどうなるかの瀬戸際なのよ!」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。いつ俺がここに入るって・・・・」
「あら、あんたまさかこんな綺麗なお姉様を敵に回すつもり?」
魔女の笑みと悪魔の視線が同居した表情でプレッシャーを与える。
「い、いやそんなつもりじゃ・・・・・」
幼少時から植え付けられたコンプレックスは容易には拭えない。
「じゃあ気合入れて応援しなさい」
「は・・・・はい」
チケット、往復の交通費、そして二枚の福澤諭吉。
スッチーとの合コンの費用に充てようと
浅はかに考えた事を悔やむ将人であった。
味方が攻めあぐむ様子は失点の原因を作ってしまった
スイーパーの飯田に取って自責の念に駆られる光景であった。
俺のせいだ、俺がこいつに注意を払い過ぎなければ。
只一人前線に待機している小池を見やりながら
ゲームキャプテンはある決断を下していた。
俺も攻撃に参加する。
現役最後の試合に悔いを残さない様に。
様々な困難に巻き込まれた初年度のシュバルツ愛媛にとって
数チームを渡り歩いた経験と苦労人故の人望を持つ飯田の存在は貴重だった。
解散騒ぎが勃発しなければ路頭に迷う事を余儀なくされていたであろう
古典的なスイーパーは再出発したチームをよく纏めていた。
しかし急速に進化するこの国のフットボール事情に加え、
十年以上の戦歴による左肩・右膝・腰の古傷、
そして年齢による身体的衰えは最早経験では補えない所まで来ていた。
がに股を響かせながらハーフラインを超える背番号19の姿は
観客のどよめきと味方の驚愕を引き起こした。
しかし飯田の「フットボーラー人生、最初で最後のオーバーラップ」は
後方からの上がりに対処し切れない
マンマークを敷くブリッツの混乱と動揺を誘った。
マークの受け渡しに隙が生まれ、
理不尽な肉体的接触に耐えていた羽生が動き出す。
その瞬間徳宮は魔法の杖を振り下ろした。
紫紺の壁を切り裂くスルーパス、
素早く反応した背番号18は反応が遅れたマーカー達の
反則覚悟のチャージとタックルをかい潜り、
飛び出したキーパーの脇の下にトゥキックで流し込む。
爆発する歓喜が待つ方向へ転々と白黒のボールが転がり込む。
崩れ落ちるブリッツの選手達。
素早くボールを拾い再開を促す羽生。
後に金村はその時の光景をこう語っている。
「その直前に年間収支が黒字だと判明した安心感からか、
アクション映画でも見ている様な非日常的な感覚だった」
映画は90分では終了せずに最大30分の続行と相成った。
激戦となった90分間の疲れを癒して、
両チームの首脳が新たな戦術を模索している最中、
金村は美しい秘書から他会場の試合結果を受け取った。
首位エスパーダが敗れ、三位ガイストは延長へと突入した。
この結果、シュバルツは延長Vゴール勝ちだと
得失点差の関係でエスパーダを追い抜いてまさかの優勝。
引き分けでもガイストとの直接対決では2勝しているので昇格決定。
敗北だとガイスト次第と言う事になった。
歓迎すべき結果を伝えようとピッチへ足を運ぼうとしたが思い留まる。
指揮官は一人でいい。
金村は近くにいたボランティアを呼び止め、伝言を依頼する。
ピッチの側では休憩時間中に懸命にマッサージを行う漆黒の一団があった。
優勢に試合を進めていたとは言え、
これまでの25試合分の疲労が体内に溜まっている。
『気力が切れたらやばいな』
そう考えていた水谷の元に他会場の結果が伝えられた。
鬼瓦は無言で頷き、選手を呼び集める。
「Vゴールは過剰に意識しなくてもいい。
相手は一発を狙ってくるはずだからのらりくらりと
やる気を削れば必ず隙が出来る。そこを狙え」
何とも言えない中途半端な結果は伝えなかった。
今は眼前の試合だけに集中させよう。
まだこのチームはそう言った駆け引きが出来る程、熟成していないのだから。
知らぬ間に日が西側に傾き、
市民陸上競技場を照らす光が赤みを帯び始めつつある状況の中、
延長開始を告げる笛が鳴り響く。
ゆっくりと自陣でボールを回しながら体勢を整えるシュバルツに対して、
積極的にボールを奪い取ろうとするブリッツ。
「しまった」
金村が思わず舌打ちする。
ブリッツは勝たなければ地域リーグ降格の状況を伝えていなかった。
急いで紙片に結果を書き殴ってボールボーイに手渡す。
数分後、帰ってきた紙片にはこう記されていた。
「うちが勝てば何の問題もない。こいつは貸しにしておく」
別にフットボールやスポーツに限った事ではないのだが、
勝負事は冷静と熱狂の均衡が勝敗の鍵となる。
一瞬の隙を突いて残留の鍵を掴んだかに見えたブリッツも
昇格を望む漆黒に染まった競技場の異様な雰囲気に呑まれてしまった。
一度切れてしまった集中はそれまで断崖絶壁を渡り歩いた
精神的疲労も重なって次第とプレーが緩慢になってしまった。
遅攻を仕掛けようとする漆黒のホームチームに対して、
必死にボールを奪い取ろうと
紫紺のアウェーチームが乳酸が溜まった身体を酷使する。
「どこで仕掛けるかだな」
冷静に戦況を見詰めるシスコンの大学生が呟く。
「どう言う事?」
「うん、相手はもうバランスが崩れてしまって、
前線の36番が突っ立っているだけだから
ボールを取られても点にはならないと思う。
それに比べて『こっち』の18番は細目にポジションを変えて
逆襲に備えているから、どこかで向こうの緊張の糸が切れた瞬間に
素早く前線にボールを供給すれば勝てるよ」
「あんたがあそこにいたらどんなボールを出すの?」
さり気ない誘導質問だったが試合に没頭している弟は気付かない。
「右のサイドバックの位置が甘いから
あっちにバックスピン気味のロングフィードかな」
この日のスポーツニュースを独占した得点シーンは概ねその通りだった。
延長からボランチの位置に入っていた吉口がボール奪取後に
屋野とのワンツーでサイドラインを駆け上がって注意を引き付けると、
左サイドへのサイドチェンジを敢行する。
中央にマーカーを引き付けていた徳宮のスペースに走り込んだ
後藤がダイレクトで打ったシュートはキーパーが懸命に弾くが、
そこには『夢のまた夢』を現実へと変えるべき男が
しっかりとポジションを取っていた。
全盛期を思わせる脚力で一歩に駆け寄る水谷、
脱力してへたり込む金村は秘書に抱きつかれるのに気付かない。
こうして劇的な展開でシュバルツ愛媛は二部優勝を果たし、
その後の発展の足がかりを掴む。
サポーターの情熱、スポンサーの信頼、
そして満足感と充実感を胸に引退した飯田に変わる
新たなディフェンスリーダーである。
木田 将人。後に『マエストロ』と呼ばれるスーパーリベロである。
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