世界史を語る上で決して無視できない大国が存在する。
彼の国は最盛期にはアジア・アフリカ・ヨーロッパの
三つの大陸にその領地を跨げ、その周辺地域に多大なる影響を与えた。
にも関らずそ現代においてその知名度は決して高くなく、
その拡大路線を支えた軍事制度について語られる事も殆ど無い。
オスマン・トルコ帝国は名称の通り、
オスマンと言う指導者が率いた勢力にその起源を為す。
当初は戦士集団の集りに過ぎなかったこの勢力は
(平安時代の武士みたいなものなのだろうか)
やがて宰相(ヴェズィール)制度に拠って高度な組織を誇る
中央集権的な色彩を帯びる事となった。
同時にこのシステムに呼応する形で新たな軍制も模索された。
君主権力の強化を目指すオスマン君候国にとって
(まだ帝国とまではいかない)
理想とされたのは君主直属の常備軍の編成。
幾つかの試行錯誤を経てやがて一つの完成形へと行きつく。
それは叛乱要素にもなり兼ねない異教徒の異民族出身者達だけを集めた
御門の奴隷(カプクル)軍団だった。
徴兵方法は当初は戦争捕虜に頼っていたが
やがては少年徴集(デヴシルメ)なる制度が確立する。
領域内に居住するキリスト教住民から10代の少年達を強制的に徴集、
イスラム教に改宗させた上でトルコ語と厳しい訓練を叩きこむ。
やがて使い物になると判断された強者達は歩兵として
新軍(イェニチェリ)に配属される様になる。
この軍隊がオスマンの征服活動に多大な貢献を為したのは
単に精強だったからではない。
君主直属の軍隊の活躍は同時に中央集権化に繋がり、
嘗ての同僚達の子孫でもある在地騎兵軍を組み合わせた
(正規と不正規の二種類が存在した)
新戦術を生み出すきっかけともなったからである。
尤もこの軍制にはまだ『敗北』と言うスパイスはかけられておらず、
多分に甘さを残した側面もあった。
彼等が真に歴史の一翼を担うのは
1402年のアンカラの戦い以降の事である。
電光と呼ばれたオスマン・トルコ帝国のバャズィット1世と
モンゴル帝国の栄光を夢見るティムールとの戦いは
集団騎馬戦術をよく操った後者の勝利に終った。
この事実は中東のパワーバランスに決定したかに見えたが、
現実は二つの要因に拠って異なる方向へと向かう。
一つはティムールの中国(当時は明)遠征に拠る軍事的緊張の緩和、
もう一つは最精鋭部隊であるイェニチェリが戦場離脱に成功したからである。
イュルドゥルムと呼ばれた父親の後継を巡って
皇子達が争った内戦でもイェニチェリは一枚岩を保ち、
1413年の再統一に決定的な役割を果たした。
その報酬として彼等の発言権を急激に増した事は
値段の張る大砲と小銃の大量使用で窺い知れる。
勿論、イェニチェリは値段分の仕事はやってのけた。
最早伝説ともなっていた鉄壁の要塞、コンスタンティノープルの攻略を
手始めに東ヨーロッパ諸国を瞬く間に制圧すると、
(これはこれで後世に禍根を残すのだが)
アフリカや西アジアにも間断無き侵略を開始した。
よく整備された軍隊は大抵の会戦において勝利を収め、
祖国に栄光と富をもたらし、同時に自らの規模拡大にも余念が無かった。
記録によれば16世紀前半の人員が約2万人だったのに対して
(正規人員は半数にも満たなかったが)
一世紀後には歩兵だけで3万8千人、
加えて騎兵・砲兵等も加えると6万人を越す肥大化を示している。
専業である軍人達が何等の生産活動に従事しない以上、
彼等を養うだけの経済力が必須ではある。
だが間の悪い事に喜望峰とアメリカ大陸の発見に伴う
新航路の開拓は経済力の低下に繋がり、
それが売官制に象徴される収支の悪化に拍車をかけた。
さらにシーア派を国教とする仇敵との対抗上、
スンナ派の強化を推し進めざるを得なかった為に変化への対応力が遅れ、
何時しかイェニチェリも既得権益の確保に汲々とする集団に成り下がった。
退廃の成果は多くの敗戦と西ヨーロッパの足掛かりを喪失した
1699年のカルロヴィッツ条約に結実された。
以後、オスマントルコが欧州に対して攻勢に出る事はなく、
嘗ての覇気は身内の政敵にのみ向けられる事となる。
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