『ビットリオ・ポッツォ』
『世界最大』のスポーツイベントが政治の悪影響を受け続けたの同様に 『世界最高』のスポーツイベントもまたその影響を受けた大会が存在する。 ムッソリーニによるファシズムが跋扈していた34年イタリア・W杯。 前回準優勝国・アルゼンチンの主力であるイタリア系移民の強引な引き抜きと 『ホーム贔屓』と言うレベルを超えた偏った審判の判定。 その他にも活字や公に表れなかったであろう様々な『工作』を通じて 結実した2大会連続のホストカントリー国の優勝は 国外からはブーイングを持って迎えられた。 『スポーツの世界にとってこの大会は失敗だった』 『あそこまで対戦相手が無視されるのは可哀想だ』 お陰で優勝に相応しい実力を持っていた アズーリは多くの書物から無視された存在となっている。 そんな訳で34年の優勝監督であるビットリオ・ポッツォは 史上初めての『前回優勝国』として望むフランスW杯では (1930年の優勝国であるウルグアイは34年は欠場) 『汚名』を雪ぐ手腕が期待された。 とは言っても『自国での優勝』を達成する為だけに集められたメンバーは アルゼンチンからの『FA組』も含めて大半はピークを過ぎている。 若手への世代交代と『連覇』へ向けたチーム作り。 相反する難問に対してポッツォは逃げる事無く取り組んでいく。 4年後を見据えたプログラム起動は 自国優勝から5ヶ月後の1934年11月14日、 イギリス・ウェンブレーから始まった。 この試合、アズーリは一時は2点のビハインドを詰めるも 結局は3点目を取られて敗れてしまう。 そしてこの敗戦を契機にポッツォは懸案だった 中盤と守備陣の梃入れを始める。 イングランドと試合で骨折した『FA』組の一人に代えて 40mのパスを出せるアレオンドロをセンターハーフに抜擢、 (ポジション的には中盤の底に当たり、現在のボランチに該当する) さらに2年後にはベルリン・オリンピックで優勝したメンバーからも (因みにこのチームは『日韓連合』を8−0の大差で破っている) 現在のセンターバックに当たる二人のフルバックを 速やかに昇格させてチームの足腰強化に成功する。 ここまでならポッツォならずとも可能だったかも知れない。 だが彼が真に偉大だったのは攻撃に対する新たなアイディアである。 そう、『南京錠』と並ぶイタリアの御家芸『カウンター』である。
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