『三国志演義』は言うまでもなく劉備陣営を善玉とした設定であり、
当然の事ながら彼等に敵対した勢力、
叉は打ち破った人物に対する評価は非常に悪い。
その中でも破格の才能と実績で悪評を打ち破って
自らの価値を認めさせた曹操を別とすれば、
この人物の評価は関羽を攻め滅ぼしたと言うだけで不当なまでに低い。
呂蒙が歴史の表舞台に登場するのは義兄の軍隊を引き継いだ
西暦200年初頭の頃である。
豪族連合政権であった呉の軍制は
豪族の軍隊をそのまま親子・兄弟で引き継ぐ事が認められる
『世兵制』が施行されており、
当時は20代の若造に過ぎなかった彼は
制度的に有力な軍隊を率いる事が可能だった。
尤も15歳の時に賊を討ち取り『虎穴に入らずんば虎児を得ず』などと
宣う男が制度などに頼らずとも早晩、一軍を指揮したであろうが。
孫家の仇敵であった黄祖(劉表ではない)の征討戦でも
功績を建て、名実共に呉の有力武将と目される様になった彼だが
この頃の愛称である『阿蒙』が示す様に
どうも勇気と思慮の均衡が著しく欠けていたらしい。
孫権からも重臣を通じて何度か諭され、
そして恐らくは赤壁での周瑜の智略振りに感銘したのだろうか
(孔明が活躍したのは呉の陣営を説得する所まで)
『30の手習い』とばかりにに書物に噛り付き、
やがて粘り強さ交渉力と奥深い知性を兼備する魯粛でさえも
『刮目』すべき成果を表した。
この様な知勇兼備の男が周瑜・魯粛の死後
その後任として魏・呉・蜀の結節点に当たり、
複雑な政情が入り混じる荊州の担当者に就任するのは当然だった。
彼等の撒いた豊穣な実を刈り取る為に。
呂蒙に課せられた任務は単に領地の奪取だけではなかった。
当時はまだまだ未開の地であった広州に盤踞し、
人口の過疎による生産力の過小に悩まされていた孫権に取って
彼の地の奪取は単に親の仇と言う次元を超えた悲願でもあり生命線であった。
既に荊州の東半分は蜀から割譲させたが、
あの程度の人口では鼎立に足るだけの生産力は賄えない。
劉備が漢中で曹操を(初めて)破って勢威を極めていた頃、
呉は自らの進退を賭けた大博打を打っていたのである。
呂蒙の相手となるのは劉備の側近中の側近である関羽。
半ば神格化された名声と武勇を誇る人物であり、
幼稚な自尊心と競争心を併せ持つ男でもある。
この頃既に死病に取り付かれていたらしい
呂蒙は巧みに一世一代の大舞台で絶妙の演技を披露する。
まず着任の挨拶として遜った手紙を送って関羽の警戒心を解く。
ついで関中攻略の勝報と自分の特権的地位に不安を感じた
関羽が荊州北部の魏領への侵攻を開始すると
『病気療養』で後方に下がる自分の代理に当時は無名であった
智将・陸遜に指揮権を譲って関羽の『油断』の窓口を最大限に広げた。
関羽の北上は当初は順調だったが、樊城の攻略に攻めあぐんだ。
そして自己の武勇を恃む男の視野には前線しか写らず、
彼は抑えの兵力も前線に投入してしまう。
その事を知った呂蒙は電撃的に侵攻を開始、
商人に化けた兵船を持って瞬く間に
関羽の本拠他である公安・江陵を奪う。
この時、呂蒙は関羽の兵糧輸送命令に背いた事で
不仲になっていた中級指揮官を投降させているが、
この示し合わせた様な行動と劉備政権下での
関羽の『特別な』地位を考慮しない彼等の怠慢を考慮すると
既に呂蒙の手が伸びていたのかも知れない。
豪傑が智将の前に敗北する。
既に曹操と呂布との戦いで示された
時代の移り変わりは一掃、明確な形を見せた。
尚も戦乱の暗雲は中国を包み込むが
その戦いには嘗ての様な華々しい一騎討ちは存在せず、
智略の差が勝敗を決する浪漫の介在する余地のない場へと変貌する。
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