『三国志』
日本においては『三国志』は中国歴史物語の代名詞的存在である。 しかし彼の地においては明初に『三国志演義』が出るまでは その存在と扱いは『地味』かつ『マイナー』の域に止まっていた。 意外かも知れないが、春秋戦国、楚漢、南北、五代十国と事欠かさない 中国ではああいった尻切れ蜻蛉の様な結末は受けが悪いらしい。 そんな評価は人物評にもダイレクトに現れている。 いくら曹操が公式記録で『破格の人』と評価され、 孔明が中国史上最高の軍師と目されようが、 (個人的には劉邦を補佐した張良の方が上だと思うが) 彼の地の『英雄』とは天下(中華)を統一した人物を指すのであり、 天下を取れなかった彼等の扱いは「その他の群雄」と言った程度である。 では何故『演義』の作者である羅貫中は そんなマイナーな時代に眼をつけたのか? 答えは漢民族最後の王朝であった明の成立事情にある。 明王朝は南方から漢民族復興の旗を掲げて 中原を不法占拠している(と目されていた)蒙古民族を モンゴルに追い払った事で中華を支配する名分を得た王朝であった。 しかし自らの正当性を強調するべく急いで作らせた 『公式記録』の出来は到底宣伝に使える代物ではなかった。 そこで明王朝は急場を凌ぐべく自分達と似た境遇の、 出来れば自分達を引き立ててくれる話を探す必要があった。 ここで恐らくは明王朝の息が掛かっていたであろう 羅貫中の目に止まったのが『三国志』である。 配置・配役・結果、何れも理想的なこの話を使わぬ手はない。 彼は『劉備(明)=善、曹操(モンゴル)=悪』の構図の下、 当時の世情人々に親しまれ易い奇想天外な話を盛り込む事で 明王朝特有の説教臭さと真の狙いを巧みに隠した。 こうして後に『中国四大奇書』の一つと目される 『三国志演義』が世に出たのであった。
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