30年戦争は旧勢力と新勢力二つの潮流が真っ二つにぶつかった
『ヨーロッパ版関ヶ原』とも言うべき史上初の『多国籍戦争』だった。
この戦争は一般にカトリックとプロテスタントがぶつかった
『宗教戦争』としての色彩が強いと言われている。
確かに両勢力ともそれぞれの都合の良い
イエス・キリストと言う『御旗』を掲げていたのだが、
それは一種のスローガンに過ぎない。
根っ子にはもっと生臭い理由があったのである。
この戦争の契機は前世紀にまで遡る。
イスラム(オスマン・トルコ)の猛威に対抗する『国家』の意識の覚醒、
ルネッサンスによる人間中心の学術・文化の復興、
そしてカトリックの堕落を非難する宗教改革によって
ヨーロッパは『蒙昧な騎士の大陸』から次第と質的な変化を始めていた。
尤もその変化は平和的に行われた訳ではなく、
それまでカトリック教国に搾取されていたアルプス以北の地は
武力を持って『プロテスタント』(抵抗者)となった。
有名な所ではスペイン『王家』ハプスブルクからの
独立を測ったネーデルランド、
(よく『スペインの植民地』と書かれるがこれは変だと思う)
フランス国内のユグノーと旧教徒の争い、
その流れはヨーロッパの中心部、ドイツを支配していた
神聖ローマ帝国にも及ぶ。
支配者側に取って好都合な『清貧に甘んじる』
現状維持志向を掲げるカトリック。
爆発的に成長する商工業者達が良心を痛ませない
『自分の役割を果す事こそ神の御心に叶う』発展志向を掲げる
プロテスタント。
両者は1618年ボヘミアで徴税吏が市庁舎の2階から
投げ落とされた事件を契機に全面的な武力対決に突入する。
一般に『30年戦争』と表記されると、
その間は絶え間無く戦争を続けていた印象を受ける。
だが産業革命を経ていない経済状況では『総力戦』の遂行は不可能であり、
所々で『停戦』と言う名の『休憩』を入れねばならなかった。
特にこの戦争は状況の変化に応じて、
両陣営の旗頭が3度に渡って変化している。
まず直接のきっかけとなったボヘミアと主軸とした第1期では、
カトリック側が本腰を入れた軍隊を派遣したのに対して、
プロスタント側は足並みが揃わず完敗を喫する。
続く第2期は神聖ローマ帝国の政治的対立と
フランス対スペイン(ハプスブルク)の利害対立が複雑に絡み合った。
それぞれが後方から支援する形でカトリックの神聖ローマ帝国に対して、
デンマークがプロテスタントの旗頭として挑戦状を叩きつける。
だが、当時ヨーロッパ世界最強と目されていたスペイン陸軍の
エッセンスを吸収していた神聖ローマ側はデンマークを圧倒し、
又もプロテスタントは敗者となってしまった。
この動きを見て立ちあがったのがバルト海を挟んだスウェーデンだった。
ハプスブルクに対抗していたオランダ式の陸軍改革を学んだ
彼等はプロテスタントの保護を掲げ、ドイツの地に殴りこみをかけた。
前回、前々回とは異なり、強力な軍隊を得たプロテスタントは
戦場でカトリック(神聖ローマ)を打ち破るものの、
戦術レベルでの勝利を政治に広げる手腕に欠け、
その内両陣営の軍事指導者が世を去るに連れて事態は泥沼化してしまう。
結局プロテスタント側は弱体化したスウェーデン軍が
戦場で大敗を機に3度目の屈服を余儀なくされる。
そして第4期はこれまで黒幕として間接的に援助してきた
フランスが国教を無視して(彼等はカトリック教国)
プロテスタント側の旗頭として直接参入を果す。
神聖ローマは戦争による国土の荒廃によって
旗頭たる条件を喪失していたのでスペインが旗頭を務めたが
既に大航海時代の国力は喪失していた。
そしてプロテスタント側は4度目の正直で遂にカトリック側を圧倒、
1648年史上初の国済条約と目されるウェストファリア条約で
自らの存在を公式に認知させる。
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