フランスとの第二次百年戦争に勝利したものの、
莫大な戦費を消耗した『日の沈まない』大国は
負債の埋め合わせを大西洋を隔てた植民地に求め、
砂糖条令・印紙条令・タウンゼント法と言った
『重税』の見本の様な政策を突き付けて来た。
当時、先住民(所謂インディアン)との血で血で洗う闘争に
一応のケリがついて社会が落ち着きつつあり、且つ成熟化していた
北アメリカ大陸東部に居住していた住民達は
『代表なくして課税なし』とのスローガンの下に反発する。
この諸政策自体は大部分が撤回されるものの、
人々の意識下に燻り続けてきた欲望は次第と明確な形を取り始める。
東インド会社に与えられた(紅)茶に対する特権に対する反抗として
ボストン港で行動に打って出る。
前回と異なり今度は妥協の必要を認めなかった、と言うより
恐らくは伝統ある会社との結び付きが強過ぎて妥協出来る立場でなかった
イギリス本国政府は断固とした態度で事に臨み、
そしてアメリカ独立革命を引き起こした。
とは言っても蒸気機関が実用化されてない当時の交通手段では
対応なり反応なりにタイムラグが生じるのはやむを得ない所であり、
実際に戦争が始まるのはそれから一年程度の時間が必要である。
その間に両国、特に植民地側は何をしていたのかと言えば
実際に戦う軍隊の創設に取り組んでいたのである。
この作業に対してリーダーシップを取っていたのが
かのジョージ・ワシントンなのだが卓越した指導能力に対して
平凡な軍事能力(広い意味で)しか持ち合わせていない
彼が志向したのは古典的な欧州式の軍隊であり、
それでは当時世界最強だった軍隊を相手にするには荷が重かった。
だが不利な立場と目されていた植民地側にもアドバンテージは存在した。
前述したインディアンとの関係上、殆どの青年男子が実戦経験を持ち、
且つ射程距離の長い施条(ライフル)銃の扱いに慣れていた事、
そしてその特性に合った戦略・戦術を創始出来る人物が存在し、
その有効性をサラトガの地で立証できた事である。
時は1779年の9月。
場所はアメリカ北東部のハドソン川付近。
この頃、正面決戦よりも後方の補強線脅かす事で善戦していた
独立軍側に対してイギリス軍側は彼等の本拠地を孤立させるべく、
軍隊の行動が起こしやすいこの時期に積極的に動いていた。
しかし万全を期して行動を起こさせていた筈の別働隊は阻止され、
援軍もワシントン率いる南部軍と睨み合って動ける状態ではなかった。
そんな状況でサラトガの地で対峙した両軍は独立軍側の偵察行動が
発端となって正面の殴り合いが開始される。
緒戦は背景に溶け込み易い服装と射程距離と
命中率の高い施条(ライフル銃)を持って
旧式の滑空(マスケット)銃と目立つ緋色の軍服を着込んだ軍勢を
相手に戦局を有利に進めた独立軍側だったが、
体勢を立て直したイギリス軍側の長年の経験の前に一転、危機に陥る。
しかしながら独立の情熱とは無関係な
(この時期の彼等の心情にまだ『祖国』は存在しない)
猛烈な反撃によって戦局を五分以上に押し返し、
今度は逆の立場に立ったイギリス側も左翼からの側面攻撃で
これまたピンチを脱した。
だが前述した装備の差によって3割の戦力を失ったイギリス軍側は
(因みに独立軍側は1割にも達していない)
援軍を待つべく持久戦の構えを取るが
プロテスタントの支配する地で英国国教会の加護は期待出来ない。
拠って勝算が低く、且つ唯一の手段である強行突破を採用した
イギリス軍側に対して今度は有利な立場である事を自覚している
独立軍側は自軍が訓練不足である事を逆手に取った編成で勝敗を決する。
優れた射撃技量を有する狙撃兵と戦闘経験豊かな民間人を融合させ、
軽快な機動力を持つ独立軍側はまず両翼から攻め立てた。
そして意図的に敵の中央を手薄にさせその隙を突く戦術は見事に的中、
万策尽きたイギリス軍側は降伏を余儀なくされる。
この会戦の勝利によって株を上げた独立軍に対して
第二次百年戦争で手痛い敗北を喫していたフランスは公然と
独立軍側の支援を始め、独立軍が偶然と必然の双方に拠って
採用した新戦術のエッセンスを吸収する。
尤も創始者である『アメリカ』の方は
正統派であったワシントンの影響力に拠って
ゲリラ戦術の嚆矢とも言うべき新戦術を放棄してしまい、
そのツケを200年程の後に枯葉剤で支払う事となる。
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