『薩長同盟』
日本の近代史上欠かす事の出来ないトピックスであり、 同時に近代以降の統治形態を決定づけた同盟でもある。 1853年にアメリカ海軍東インド艦隊司令官が持ち込んだ衝撃は 嘗て『関ヶ原』で一敗地塗れた2つの有力藩を政治の表舞台へ押し上げた。 一つは消極的主犯格として120万の石高を三分の一にまで削減されながら 農民反乱を契機に様々な藩内改革を断行して、 90万石の実力を持つと評された長州藩。 もう一つは木曽川の治水請負に象徴される過酷なまでの苛めに耐え抜き、 その過程で生じた膨大な赤字を借金の踏み倒しと 過酷な黒砂糖の搾取に拠る密貿易でどうにか埋めて実力を蓄えた薩摩藩。 共に嘗ては独立自営の戦国大名としてなを馳せた両藩は 如何なる経緯を経て共に手を携えるに至ったのか。 まず先に華々しい活動を見せたのは長州藩だった。 事実上の家祖・元就以来、トップの個性が乏しく意気の良い中堅や若手が 活躍できる素地のあった中国・山陽の雄藩は類稀な思想家・吉田松蔭の 指針に基づいて『尊皇攘夷』へと突き進む。 この幕末で最も流行ったスローガン自体は中国・春秋時代のパクリだが、 (原語は異民族に追われた王室を助けると言う意味) 重要なのは超管理貿易に拠る情報上の『鎖国』が続いていた日本において それまでの政治方針とは異なる指針を打ち立てた事だろう。 この一事を持って長州藩は幕末の歴史に名を止めた。 一方の薩摩は未来の提携相手とは逆にトップの意向と性格の影響が その行動に極めて強く繁栄されている。 開明的君主としてその名を歴史に残す島津斉彬は ふんだんな資金を惜し気もなく消費して積極的に外来の文化を吸収、 同時に西郷隆盛の様な見所のある下級武士達に活躍の場を与える。 だが斉彬の最大の功績は皮肉な事に自身の急死の結果として 藩主(トップ)の権威低下を招き、下級武士に活躍の場を与えた事だろう。 彼の莫大な出費を危ぶみ、敵対した調所広郷と結託した 保守派との確執の最中の急死は(個人的には毒殺と睨んでいるのだが) 傀儡君主(斉彬の甥)を生みだし、 同時に『情勢次第による方針転換』が可能となった薩摩の政情は 開明派の遺風を受け継ぐ西郷隆盛と保守派のボス・久光の(藩主の親父) 懐刀である大久保利光との提携を生み出して行く。
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