『七年戦争』
1756年に始まるこの戦争のきっかけは 16年前に勃発したハプスブルク家の後継ぎ問題だった。 女性であるマリア・テレジアの家督相続への不満を表向きとした ラインの諸侯の利権奪取の本心を見抜いた プロイセン国王・フリードリヒ2世はバイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、 さらにはアンチ・ハプスブルクの一点のみで利害が一致するフランスとも 同盟を結ぶ万全の体勢を敷いて電撃的な侵攻の準備を整えた。 そして彼等の対応に追われているオーストリアの隙を突いて シュレジエンを奪取、苦境に立たされた相手から彼の地の割譲を承認させる。 だが、腐っても鯛とでも言うべきか魑魅魍魎な政治の世界と オスマン・トルコの様な屈強な軍隊と戦い抜いた ハプスブルク家はここで得意の粘り腰を発揮、 ドイツ諸侯には懐柔策を持って宿敵フランスには武力の発動を持って対抗、 同盟国(資金提供を行っていた)でもあったイギリスが 海外の植民地で活躍した事もあって状況を五分以上に持ち直す。 危険を感じたフリードリヒ2世はハッタリ的な武力侵攻を実行、 結果的にこれが効いた格好となり、 プロイセン側にとっては一応の納得が行く結末で終了する。 寒冷地帯を領する二流の国家にしてやられたヨーロッパ隋一の名門は 複雑な問題を種々抱える広大な所領の統治手段としての面子を立てるべく、 なりふり構わぬ外交努力を展開する。 太陽王以来のスペイン政策が行き詰まりつつあったフランスに対しては ライン左岸の利益と愛娘をちらつかせ、 北の大国・ロシアにはポーランドの利益をちらつかせて 広大な『反・プロイセン大同盟』を築き上げる。 尤もプロイセン王国を手を拱いていた訳ではなかった。 外交的な苦境を自覚していた彼等は (イギリスと資金提供の同盟は結んだが) 自国のアイデンティティーとも言うべき軍隊の質的向上に着手、 47年の『停戦』からの9年間をひたすら戦争準備に当てる。 具体的には鉄砲による横隊の殴り合いによる甚大な被害を回避するべく、 機械的な動きの出来る規律の取れた軍隊の改造、 自国の防衛戦に備えての軍需物資の確保、 並びに複雑な計算を必要とする補給体系の確立によって将来の防衛戦に備えた。
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