1877年の西南戦争を以って武力での実権回復の道が断たれた
『士族』と言う名のプータロー達は
知力(学識)を以って日々の糧を得ようとした。
少しずつ普及し始めた義務教育下での教師。
慢性的な人材不足に喘ぐ地方(叉は下級)官吏。
そして海外からのエッセンスを消化した文化の担い手として。
今回は必ずしも長くはない生涯の内に古来の文化の復興と
新規の文化に対する先鞭をつけた人物を取り上げてみたい。
正岡升(のぼる)と言う名で彼がこの世に生を享けたのは
徳川慶喜や薩長の連中が京都の地でぎりぎりの鍔迫り合いを競っていた
1867年の事だった。
最後の将軍が歴史的な大局観で敗者と朝敵の汚名を甘受した余波は
下っ端の武士に過ぎなかった正岡家を遠慮会釈なく直撃し、
升少年は幼少の頃から貧乏との親密な交際を余儀なくされた。
尤も恵まれない環境は外祖父(母方の祖父)に当たる
大原観山や土屋久明に漢学の基礎を学ぶ時間と向上心を与えた様で
(この時期に秋山真之と知り合ったどうかは知らないが)
後の活躍の基盤はこの頃に出来上がっていた感がある。
とは言ってもそこは多感な青年である以上、
真っ直ぐに俳句・和歌の革新に進む道へと一直線に突っ走った訳ではない。
軍談・政治・哲学そしてアメリカから輸入された珍奇なスポーツ。
本業(と言う表現が正しいのかどうかは判らないが)にも打ちこみながらも
あちこちに顔を出していた彼は何時しか鋭い言語感覚と
深い古典教養を身につけていた様である。
尤もその学識が最初に発揮されたのは『子規』の名で知られる分野ではない。
『野球』と訳されたベースボールだった。
子規のベースボール熱を伝える文書は数多い。
柴田宵曲と言う人物が記す所では予科第二級(東大の一歩手前)に
在籍する給費生に過ぎなかった身上ながらも、
余暇は雑書の雑読や寄席行とベースボールの練習に費やされていたらしい。
ベースボールの黎明期を窺い知る貴重な文献で知られる
『松蘿玉液』を作成したり、
自身のコラムである「筆まかせ」でも試験明けにベースボールに興じる姿が
生き生きと描写されている。
もし子規の身体が健康に恵まれていたのならば
その名は俳人としてより野球の名付け親か
日本におけるベースボールの父として残っていただろう。
(彼はドロップ(縦のカーブ)の使い手でもあったらしい)
だがコレラの大流行に象徴される医療体制の不備が生じた
肺病(結核)は子規の人生を俳句・和歌へと変更させる。
吐血から死に至るまでの十数年間、
子規は何かに取り付かれたかの様に大量の著作を発表する。
写生を重んじる事で『ホトトギス』『アララギ』派の祖となった
子規に関しては私は何も語れないし、
資料を繋ぎ合わせた感想を述べるつもりはない。
だが彼が友に与えた影響については別である。
と言っても相手は帝国海軍に入った秋山真之ではなく、
(この二人は実際に親交があったらしいのだが)
中退した帝大時代に知り合った夏目金之助(漱石)に関してである。
金之助が自然主義が幅を聞かせた当時の日本文壇に在って
何の接点もない個人的理想主義を掲げたのは
落語を介して知り合った子規の存在を無視できない。
それは単に『坊っちゃん』の舞台が子規の故郷であるからだけではない。
(金之助自身が松山中学の教員だった事もあるが)
彼の作風である西洋文学の知識と俳句的東洋趣味の結合には
明らかに子規の影が見える。
そうベースボールを『野球』と訳した子規のセンスと
漱石のそれは明らかに同じ類である。
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