『将軍の襲名』
80年代に開催されたW杯は中盤を司る名手達に拠って 人々の記憶に深く刻み込まれている。 82年は『ブラジル』らしさを前面に押し出した クアトロ・オーメン・ジ・オーロが 優勝以外の結果は許容出来ない自国民をも納得させた。 86年はディエゴ・マラドーナがフォワードとハーフの中間の位置から (表記上のポジションはフォワード) 『神の子』の異名に相応しいファンタジーを魅せつけて、 代表チームの守備的なスタイル嫌っていた自国民をも熱狂させた。 彼等に比べるとミシェル・プラティニはW杯での実績は地味である。 出場したのは78・82・86の三大会。 78年は1次リーグ敗退でプラティニ自身も得点は挙げているものの、 自身が認める様にそのプレーは『未熟』の一言に尽きた。 82年はチームバランスに問題が有り、 『ブラジル以外で唯一、中盤で魅せたチーム』との評判も、 W杯史上初のPK戦まで縺れ込んだ西ドイツ戦の印象が無ければ 4位と言う実績が上出来に思える程度のチームだった。 86年は優勝候補の一角と目されてはいたが、 ブラジルとの美しい死闘に拠って体力を消耗したプラティニは ゲルマン魂と自身の焦りに押し潰されてしまった。 W杯ではスーパースターに成り切れなかったプラティニが (ジーコも成績は芳しくないが記録を凌駕する記憶を残している) フットボールの歴史に名声を残せたのは、 80年代前半のイタリアでの活躍が発端となっている。 82年のシーズンインから鎖国を解いた (現在の外国人天国からは想像も出来ない過去だが) ユベントスへ出向いた彼は現・イタリア代表監督の下、 開放的な空気を求める当時の社会情勢に後押しされた 攻撃的なチームのゲームメイクを委ねられる。 トラッパトーニの指揮するチームとしては珍しい事に 当時のユベントスは戦術よりも勝利への情熱と強い意志が重視された。 より細かく言及すると世界チャンピオンに輝いた イタリア人達は勝利の為にフランス人に従う強い意志が、 気まぐれな性格だったフランス人は得点への強い意志が求められた。 その結果、得た物はチームバランスに優れた ライバル達を押し退けてのスクデット。 そしてプラティニの『覚醒』だった。
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