酒見 賢一 文芸春秋
四千年にも及ぶ中国の歴史は全ての部分において
完全に解明されている訳ではない。
特に『春秋』『戦国』の様なきちんとした記録書が作成さない時代では
まだまだ幻想の霧がかかった話が多く、
正直言ってその手の話に関心の無い私には未知の世界である。
だが世の中にはどう考えても需要の少なさそうな分野を
ライフワークとする人も存在し、
そのお陰で私も僅かばかりの知識を得る事も有る。
その人に拠れば中国史上最大の思想家であった孔子は
(実態は二流の経営コンサルタントだったが)
その人物に私淑し、夢にまで見たと広言する事すら
憚らなかったそうである。
尤も彼の著書『論語』ではその名前は4回程しか登場せずに、
しかもその内容は『完璧だった』の一言で片付けられる様な
抽象的なものばかりだと言う。
多分に空理空論に走る傾きがあった孔子にしてみれば
(でなければあの様な思想など思い浮かばなかっただろうが)
彼は論争の俎上に乗せる事すら畏れ多かったらしいのだが、
孔子はその行為が自らのアイドルの真価を覆い隠す
マイナスの効果を生み出すとは思い浮かばなかったらしい。
その余り有り難くないファンに拠って完全無欠の人物とされた
周公旦はまだまだ神話の霧がかかった殷王朝を倒して、
現実に繋がる統一王朝を設立した周王家の一族である。
一族と言っても事実上の初代に渡る文王の息子にして
後継者である武王の弟に渡るのだから
先月に紹介した羽柴秀長と同様の重い地位に在ったと見ても良い。
この小説に拠ると彼の業績は華々しい軍事ではなく、
地味な内政において力量を発揮していたらしい。
尤も軍事面の才能あったとしても
太公望呂尚の様な稀代の軍略家の前では
手腕を発揮する必要もなかったであろうが。
それ以上に時代は彼の得意とする
分野での手腕を要求していた。
殷を倒した後の諸侯の配置。
今尚、原始的な因習に染まっている自国の風を改め、
中原共通の文化の作成、即ち『礼』の整理改変。
それは神官にして呪術者であり、文字を操れる高度な知識を有す
彼にしか出来ない事業であった。
尤もその動機は孔子の様な純真な思いではなかったのだが。
何時の世も創業の華々しさは人々の耳目を惹いても、
守成の地味さが脚光を浴びる事は少ない。
その好例が戦国時代の後始末を敢行した
徳川家康や本多正信の政治手腕への評価だろう。
従って彼等が範と知たかもしれない武王・周公旦が
功臣・謀士達の報い方に頭を悩ませる生々しい姿を
この本でしか拝めないのも故なしとはしない。
本拠地に隣接する地帯は血縁者、
やや離れた主要地帯には譜代の臣、
そして遠方の重要地には太公望呂尚の様な外様の功臣。
その他、隣接領主の相性や軍事バランスまでも考慮した布石は
関ヶ原合戦以降の大原則とピタリと一致する。
だが後継者への政権移行がスムーズに進行出来た徳川政権とは異なり、
周王朝の方は事実上の創業者である武王が間もなく死亡した為に、
(立場上は守成者と言うややこしい立場だったが)
周公旦は終生、領地である筈の魯に足を踏み入れる事はなく、
幼い甥(武王の息子)を輔弼する摂政として生臭い政争に身を置く事となる。
周公旦が最初に手につけたのは不満分子の掃討である。
と言っても能動的に行った訳ではない。
周公旦の統治者としての器量に疑問を持った太公望呂尚が
裏で武力叛乱を嗾けたのである。
その最終目的は『中華の混乱を抑える為の』自らの手による天下統一。
彼の才を持ってすれば決して不可能ではない様に思われた。
だが周公旦は数百年後の熱心なファンよりかは現実感覚を所有していた。
太公望呂尚に肩を並べる功臣を味方に引きずり込むと、
叛乱が起きた事を詰問する彼に詫びる事で
却って強力な支持を取り付けてしまう。
これには太公望も黒田官兵衛同様に己の野心を隠さざるを得ず、
難局を凌いだ周は次第と統一王朝としての地盤を固めていく。
その後も周公旦は全くの異国であった南蛮の地、
即ち楚と称される豪族連合体と接触する事で
不要な揉め事の火種を消し去っている。
だが、彼の最大の功績は礼楽と言う共通の価値観を植え付ける事で
『中国』と言う巨大文化圏を形成した事にある。
これによって黄河を軸する地帯には連帯感が生まれ、
各諸侯の円滑化を推進する事で武力の濫用を防いだのである。
現実と理想の違いを見極め、出来る事を着実に実行に移す能力。
孔子がこの点をも見極める事が出来たのなら、
『論語』や儒学はどう言った進歩を遂げたのであろうか。
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