『只今準備中』


関中や北陸に比べれば微々たるものだが、
それでも三月に入れば河南の気温は上がって、
つられる様に人々も活発に動く。
特に博方から洋駿に掛けては人と物の往来が激しくなり、
昼夜を問わずに何等かの活動が見て取れた。
尤もそんな風情を鹿浜から眺める
中年太りの参事に取っては肯定的な光景には写らない。

米俵はあそこに手配して、麭の保存はあの倉庫で一括させて、
支払いは五回分割にして、小荷駄の行動予定表を修正して・・・・
夢の中でも激務に追われる平九郎に取っては
ごく短い睡眠時間も仕事内容の再確認でしかない。
「今日も愉しいお仕事か」
激務と言う表現でも全てを表現出来ない書類の束を思い起こしつつ、
現実と夢の境界線に位置する意識を覚醒させる
備え付けの洗面所へと出向く。

「良き男振りになってきたわい」
普段は脂肪が満遍なくついて平和な曲線を描いている顔の線は、
疲労を映し出す眼下の隈と鮮やかに調和する
やつれた直線模様に変貌していた。
「さて・・・と」
美男子等と言う位置から遥か彼方の位置に存在してる事を自覚しても、
数十名の配下を預かる身としては嘗ての様に気楽は出来ない。
博方から取り寄せた高価な男性用櫛を取り出すと、
不毛の大地化が急速に進む頭部を丁寧に撫で付ける。

「何とか再生してくれんかのう」
人口の頭髪が生まれるまでまだ百年単位の時間が必要だった
この時代では自らの希望が極めて困難である事は自覚している。
それでも少ない頭髪を地肌の隠蔽に酷使するのは、
外見上は冴えない中年男の意地だった。
「うん」
どうにか頭皮全体を覆った様を確認した参事は
自らの存在価値を確認する戦場へと出向いた。


その戦場には周囲を圧する様な咆哮も、
一攫千金を狙って発揮される勇気も、
そして大量に生産される死者も存在しなかった。
柔らかい陽光が差し込むその部屋を支配してたのは
算盤が奏でる理知と計算の交響楽であり、
仕分の概念が文書化された大量の報告書だった。

「花押の程、お願い致しまする」
「うん」
頭髪だけでなく、視力の方も気掛かりな平九郎は
眼鏡の奥から小荷駄の予定表を確認する。
「太助は了承しておるか」
内容に言及にしないのは同意の証だった。
「こちらを」
差し出されたのは山東出身者の花押が書き込まれた書類だった。

「うむ」
平九郎は墨をたっぷり含んだ筆を取る。
その様子を見ながら報告者は胸中に安堵の溜め息を洩らす。
自分でも最初から両方出せばとも思うが、それでは売り込めない。
慢性的な人手不足に悩む黒一天や樹州知事府では、
『使える』と目された人材は責任ある地位と高額の報酬が与えられる。
仕分の才に自信のある彼も勿論、
現状からの脱却を強く願って日々の仕事に精励している。

「右吉はどの程度残っておる」
平九郎は仕事の残量を問うてきた。
「あと三日も頂戴出来れば目安はつくかと」
謙遜と自信が絶妙に配分された返答が発せられた。
「ならばもう一仕事、頼もうかの」
瞬間、右吉の心泊が跳ね上がる。
「はっ・・・・はい」
巡ってきた好機に普段の冷静さを貫く事は出来なかった。


麭を主食した粗末な中食が済んで、数字の格闘が再開された
午の刻半(午後一時)以降は次第と大物の花押入りの書物が増え出す。
「恵有様の承認は得られぬのならば直さねばなるまいて」
「銀次殿にはもう少し時を頂きたい旨を書き記しておく様に」
「黄海社中の支払いの件は原案は承知した旨伝える様に」
修一郎に出会う前までは一日中、算盤を弾いていた指は
数十の算盤を差配する指針へと変貌していた。

「知事様よりの書状でございまする」
「うむ」
普通の観点からは無理難題を吹っ掛けている様にしか見えない
命令書が何時もの様に未の刻(午後二時)に届けられる。
さて、此度は如何なるものか。
平九郎の眼に映し出される角張った文字は下記の課題が紡ぎ出されていた。

「本日、西管家と
(この頃より修一郎は内聞出来る範囲では『御館様』と記していない)
 園章衆の連名による合勢の詳細が発表せり。
 二千の衆を率いるのは南与兵衛市武なる御仁也。
 彼の者、海路にて博方への着到希望しておれば、
 当方もこれを受け入れざる理由は無し。
 朱闘犬の護衛と博方衆(修一郎達に与した商人達)への馳走を
 依頼するものなれば、支払い等の委細は平九郎に一任也。
 構えて油断無き候。
 宗洋暦六四七年 三月十日  本間龍長(花押)」

「二千とは丸崎も中々に奮発される事よ」
黒一天自体の総数が約四千である事を考えると、
帳尻合わせの援軍とは到底に思えない。
「商い・・・かの」
暁徳との暗闘に拠ってじわじわと経済力が落ち始め、
新たな商圏拡大が必要な園章が味方の勢力が貫通した
黄海に狙いを定めるのは当然かも知れない。
と、なると連中には海路貿易の利益を掠め取る狙いを持った
手合いも含まれているのだろう。
「ならば博方衆に丸め込ませよ、との事か」
相変らず、人使いの荒い御方だった。


平九郎は醤油と味醂を基本とした味付けに
細切れされた人参・牛蒡・蒟蒻が混ぜ合わさった
炊込みご飯風のお握りを頬張っている。
尤も楽しいお食事の時間であっても、
参事に各所から提出された複雑怪奇な数字模様を
脳内の地図に投影させているのだが。
うん、まずまずの進行具合だな。
物資の確保、その輸送、保存具合、
何れも許容範囲内の誤差に止まっている。

晩飯と言うには余りに貧相な三個の米の塊を干し魚と漬物と共に平らげ、
粗茶で飲み下した参事はいつも通りに最後の仕事に取り掛かる。
戸棚から黒色以外の筆と絵具を取り出すと
写された地図に様々な色を塗りたくっている。
勿論、乏しい芸術方面の才能を発揮した絵画を作成している訳ではない。
事実、その筆遣いは芸術的な即興と官能の激しさは欠片も見出せない。
冴えない中年男が披露したのは実務家に相応しい熟考と理知を感じさせる
穏やかな『報告図』だった。

「毎日の事とは言え、疲れるの」
四半刻を経て作成した図面が乾くまでは全体の数量の把握である。
この所、御無沙汰だった算盤を弾き出すと、
冴えない中年男の精神と表情に明るさが出始める。
「儂はやっぱりこっちが似合うとる」
どうにか有り付いた職は給与も場所も不満の至りだったが、
それでも対人関係に煩わせる事無く、
算盤を弾けば良いだけの生活は充実感こそなかったが
決して不満ではなかった。

「だが今は、の」
充実感の上昇は勤務時間の激増が付随していた。
二年、いや一年半前までは蝋燭が紡ぎ出す明と暗の時間帯は
妻と共に趣味の歌に費やされていた。
だが樹州−河州−標関への測量と地図作成に入った
今年からはそんな愉しみとも御無沙汰だった。
「表現したい事はいくらでもあるんじゃがのう」
そんな愚痴をこぼしながらも太い指と黒光りする相棒が弾き出した
数値を四つ切りにした不要用紙の裏側に書き込んで行く。
そろそろかの。
乾けばそそれぞれの箇所に数値を認め、
跡は知事様宛てに封を押せば良いのじゃが・・・・


 

「西からの助っ人」へと続く。

「紅屋本館」へと戻る。

黒一天へ戻る。

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