日本の歴史上、欠かせない氏族の名を挙げよと人々に問えば
大抵の人物が『蘇我氏』と『藤原氏』の両者を上げるであろう。
共に最盛期には天皇も凌ぐ権勢を誇り、
極東の島国の歴史に深く関ってきた。
尤もその関り方は正反対と言って良い程に好対照を為す。
同格にとして国政運営を要求した蘇我氏。
代理人としての実権を要求した藤原氏。
今回はそんな両者がぶつかった只一度の事件を検証してみたい。
時代は傑出した調整能力と外交能力を兼備する
聖徳太子が怪し気な神話の霧を振り払った効果が出始めた頃である。
当時、中国大陸に数世紀振りに出現した統一国家(隋)の影響を受けて、
大和朝廷では豪族連合体から中央集権国家の形成を目指す
気風が巻き上がっていた。
しかしその道は既得権の死守を目指す大豪族との
軋轢に繋がる事は不可欠であった。
名より実を取っていた(即位すると実務に携われない)
聖徳太子が志半ばで世を去っってからは
大王(おおきみ)と組んで有力者を排除していた
協力者・蘇我氏の『一人勝ち』の時代が始まる。
当時の蘇我氏の権勢は明らかに大王家を凌駕していた。
史書を見る限りでも控え目に見ても『準・大王家』
とも称すべき地位に位置していた。
だが世の中にはそんな巨大な権威にめげる事無く、
大事を為さんと野望に燃える輩も存在する。
姓名は中臣鎌足。
醒めた観察力と優れた智謀を併有する男である。
神道系の豪族の出である中臣氏は
この頃は外来宗教である仏教を背景とした
豪族に押されて衰退気味だった。
危機感を抱いた鎌足は一発逆転を画策するも
相手の保護者は彼の蘇我氏。
普通に戦えば只の『蟷螂の斧』である。
そこで彼は智謀を廻らせた。
そして出た結論は
『大王家の不満分子を糾合、その名を借りて蘇我を討つ』
ここに日本の歴史における政変の原型が作成された。
目標を定めた中臣鎌足は構想を現実化するべく、
約一年の歳月を賭けてじっくりと
『蘇我氏打倒』と言う名の料理を煮込んで行く。
まず彼は主材料の選定から始める。
と言っても彼は最初から中大兄皇子(後の天智天皇)に接近した訳ではない。
鎌足の当初の本命は軽皇子(後の孝徳天皇)であったらしく、
彼は足の病に掛かった軽皇子の看病に出向くと言う口実で
頻繁に彼と会合を持っていたらしい。
尤も中大兄皇子とも良く似た出会いのエピソードで接近しているので、
(蹴鞠で脱げた中大兄の靴を鎌足が拾った。尤も創作との説もある)
鎌足は或いは両者を天秤に掛けていたのかも知れない。
次に彼は同僚達の切り崩しを始める。
別に積極的に協力しなくても敵対行動を取って貰うのは
(つまり蘇我氏に味方する)
少数派である彼等には都合に悪い。
だが『八百万』の内、どの神様が援助したのかは知らんが
この頃の国際情勢は彼等にとって追い風が吹き荒れていた。
と言うのも複雑化していた朝鮮情勢に対して
適切な外交政策を打ち出せなかった蘇我氏に対して
朝廷内部では少なからず不満が洩れていたのである。
或いは鎌足自身がそのグループの一員叉はその筆頭だったのかもしれない。
実際、これだけの大事変にも関らず事後処理はスムーズに執り行われている。
何等かの根回しがされていたと考えるのが自然だろう。
そして最後に蘇我氏一族からも内通者を得る。
本家と対立していた蘇我倉山田石川麻呂自身は
変後、利用価値無しと言う事で処断されるが果たした役割は大きかった。
と言っても入鹿暗殺に協力した直接の行動ではない。
何故なら今尚、一定の勢力を保つ豪族達に対して
『大王に歯向かう奴は一族皆殺し』でない事を保証するのが
彼の存在だったからである。
完璧とは言えぬにせよ手堅い準備を整えた鎌足達の賭けは成功と相成り、
日本史上の皇位簒奪劇、または新王朝の交代は幻となった。
そしてこの政変によって大王家は『天皇家』となり、
少数の例外を除いて、実権を持たない象徴的な存在と言う
独特の地位を固める事となる。
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