『朕は国家なり』との名言で知られる絶対主義の権化、
ルイ14世はフランスの最盛期を現出した男として有名だが
(現在はフットボールの方がその状態だが)
彼の経歴を眺めるとお世辞にも成功したと言える業績は無い。
『自然国境説』を唱えて引き起こした無分別なまでの対外戦争は
どう贔屓目に見ても破綻しており、
『制限戦争』の枠が無ければ亡国の主としての
不名誉な名前を残していたかも知れない。
そんな余人から見れば正気とも思えぬ対外戦略も、
当人からすれば止むを得ない選択だったのかも知れない。
当時のフランスは幾度かの内乱を潜り抜け国内の反抗勢力はあらかた壊滅し、
(少なくとも武力叛乱を起こせる勢力は存在しなかった)
欧州随一の人的資源を活かした国力はエネルギーの掃け口を要求していた。
丁度、小田原征伐以降の戦略が描けずに安易に戦争を引き起こした
豊臣政権と同様の状況だったのであろう。
尤もルイ14世の悩みを作り出した張本人達には
その様な意識は皆無だったであろう。
彼等はその時々の情勢に応じた自分の職責に忠実であったに過ぎず、
何れもその権力が『王に忠実たる官僚』の域に止まる以上は
只ひたすらに職務に精通するしか道が無かった。
聖職録を持つ小貴族に生を享けたリシュリュー。
イタリアの外交使節の一員からフランスに帰化したマザラン。
(この時期の長靴に統一国家は存在しない)
失脚した前任者(マザランでは無い)の跡を継いだコルベール。
その施策が必ずしも完璧だったと言えないにせよ、
『絶対主義』と言う政治形態を工匠としては
賞賛に値する仕事ぶりだった。
以下、簡単ではあるがその内容を覗いて見る事にする。
大坂の地で真田雪村が華麗な戦術指揮を展開していた頃、
『中央集権国家』の建設中に過ぎなかったフランスでは
伝統ある三部会が開催されていた。
(今で言う国会の様な扱いだったらしい)
この時、実家が保有する聖職録の身分に拠って参上した
虚弱体質な田舎貴族は最終日に行った演説に拠って
自身と祖国の運命を劇的に変える。
彼の演説は当時幼少だったルイ13世の母親(摂政)に認められ、
『恐るべき枢機卿』としての人生を歩み始める。
リシュリューの政治方針は一言で言えば『フランス王家第一』だった。
当初はまだ摂政に対する遠慮はあったのであろうが、
政治上のパトロンが国王と対立した際には巧みに和解を取り持ちつつ
ちゃっかりと宗旨変えに成功して以降、
この病弱な男の政治的辞書には『強権』の一言に拠って塗り潰された。
相次ぐ武装叛乱と反対派勢力の陰謀にも断固として立ち向かい、
その全ての勢力を屈服させた。
対外的にも旧教国でありながら
(ユグノー(新教徒)も多数存在していたが)
『アンチハプスブルク』の方針を掲げて直接対決にまで踏み込んだ。
リシュリューの豪腕に拠って一応の統一が保たれていた
フランス政界であったが彼の死去(42年)以降は再び混乱の季節を迎える。
枢機卿の後継者マザランは人当たりのいい外見を領しての
『篭絡・買収・詐欺』の術に長けていたらしく、
彼の手法には常に『落とし所』を探る姿勢が窺える。
尤もこれは『軟弱』と言う訳では無く、
既に基盤が出来上がっていた以上必要なのは豪腕ではなく調整手腕だった。
あくまで一線を譲らない範囲内でだが。
ようやく安定した政治基盤を確立した以上、
要求されるのは安楽の座を保証する金銭である。
『重商主義』の開祖としてその名前を知られるコルベールは
保護関税・植民地獲得会社の設立・海軍力の増加の三本柱に拠って
バブル期の日本も真っ青な銭儲けに邁進する。
その極端なやり様は後の重農主義を生み出す契機にもなるのだが、
それ以上に問題だったのは太陽王の慢心を生み出した事だろう。
有り余る金銭に目の眩んだ彼は富裕な商人が多かった
ユグノーの権利を保障する勅令(ナントの勅令)を廃止する愚行をやってのけ、
約百年後に王家を滅亡させる民衆叛乱を引き起こしてしまうのだがら。
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