瞼が異様に分厚く垂れ下がっている為にそのままだと前が見えず、
右手の薬指と小指を失って右足の負傷に拠って歩行は困難であり、
ガラス勢の鏡で見た自身の醜さに涙する。
何処となく親しみを感じる外見だが、
中央アジアの混乱を鎮めた人傑が只の『モテナイ君』であろう訳も無く、
その内面はあるアラブ人の
『精神は強靱で勇敢にして恐れを知らず、あたかも強固な岩石の如くであった』
との観察に拠って充分以上に魅力的であった事が判明している。
そんな彼が生を享けた1336年頃の中央アジアの情勢は
当地の征服王朝だったチャガタイ・ハン国が東西に分裂し、
各地に豪族が分立して過酷な生存競争が繰り広げられていた。
そんな血生臭くて活気のある時代に
ウズベキスタン南方のケシュだかキシュとか言う田舎街で
家来が2・3人の没落貴族に生まれたのは
天分に恵まれたティムールに取っては不運ではなく、
歴史に名を残す好機だったのかも知れない。
トルコ化したモンゴル人と言う複雑ながらも
当時としては普通の環境で育ったティムールは、
(土着化したモンゴル人なぞ掃いて捨てる程に存在しただろうから)
トルコ語とペルシャ語を完全にマスターする。
勿論その背景にある当時は最も進んだ文明と概念と歴史を
学んだに相違ないティムールは
(彼の歴史に対する知識は相当の物だっらしい)
盗賊稼業と言う実地経験に拠って『知恵』を『知識』へと発展させる。
モンゴル人の栄光再来を夢見て。
教科書レベルでティムールの扱いは
『14〜15世紀のその他の世界』と言う
どう考えても『受験には出ないけど書かないと看板倒れだから』的な
項目に『中央アジアに大帝国を作った』の一言で済まされる程度である。
この評価を知れば当事者のティムールは怒りの感情を覚えるだろうが、
チンギス・ハーンの子孫だと名乗る人物によって
(ティムールはその血を受け継ぐ女性を正妃に迎えていた)
自分達の危機を一時的に救われた欧州、特に東欧出身者からも
熱心な反撃を食らうだろう。
『タメルラン(びっこを意味するティムールの愛称)は
オスマンの脅威を打ち払った英雄だ!』と
彼等が熱心に繰り広げるであろう主張は、
1402年7月に勃発したイスラムの東西決戦、
アンカラの戦いに根拠が求められる。
とは言ってもこの戦いの経過自体は特に目新しい物はない。
要約すればティムール側が左翼の劣勢を凌ぎつつ右翼の優勢を活かす。
更に不利な状況を自主的に判断した兵士達が寝返った事で生じた弱点を、
徹底的に衝いて敵の主将・バヤズィットをも捕らえる大勝を博した。
こう言った展開は『決戦』と評される数万人規模の大会戦では
寧ろ有り触れた展開でさえある。
ここで注目すべきは決戦時に至る過程である。
ティムールの軍隊は全て騎兵だったらしいが、
決戦予定地にイュルドゥルム(雷光・バヤズィットの異名)に
先んじたのは馬の機動力だけではない。
自らの指示に一糸乱れる事無く実行できる軍隊を築き上げた
組織運営の手腕と予め壕や柵を巡らせた用意周到な
(仮に資材を運搬していたなら両軍の機動力に大差は無かった筈)
ティムールの手腕こそが注目されるべきだろう。
そんな彼の日常生活は繁栄を極めていた首都・サマルカンドではなく
アイデンティティを感じていたモンゴルの伝統、牧草地でのテントだった。
宮殿と変わらぬ広壮な住まいで酩酊を義務付けられた
数日間の大宴会を繰り広げられたとは言え、
有事に側対応出来る体制を整えていた事は
やがてアンカラのみならず、中国遠征をも実行に移せる原動力となった。
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