16世紀以降から始まる欧州文明圏優位の時代は
同時にその他の文明圏に取っては受難の時代でもある。
特にイスラム文明圏を代表する存在だった
オスマン・トルコ帝国はしばしば彼等の征服の対象となり、
膨張の一途を辿る帝国主義者達が暴発した第一次世界大戦時には、
滅亡一歩手前と言っても過言でない状態だった。
そんな騒然と世情の中で庶民階級の家庭に生を受けたのが
本編の主人公・ムスタファ・ケマルだった。
尤も穏やかなざる時代の通弊として
この頃の彼の母国ではどこもかしこも貧乏であり、
人が食糧と知識を得るのには軍隊に入るのが手っ取り早く
当然、彼も軍人の道を志した。
この頃のオスマン帝国はウィーン攻略を目指した勢威など欠片もなく、
欧州、特にロシアとの戦争では敗戦の連続でその領地は
最盛期の20%にも満たない状況であった。
さすがに先方の優位を認めざる得なかった軍部では
帝国創立の伝説的武力集団にして職業軍隊の嚆矢とも言える
イェニチェリの改革を志向せざるを得ず、
体制の許容範囲内ながらも先方の文化や思想を受け入れ始めていた。
当然、その過程において様々な異端の文化や思想に触れる機会が多いのだが
この事はムスタファ・ケマルの人生観に決定的な影響を与えた事だろう。
と言うのもオスマン帝国では隣国との抗争の関係で数世紀来、
イスラム教スンナ派の教義が厳格に推し進められ、
帝国内の思想界は凝り固まった状態だった。
斬新な西洋の文化と固定した母国の文化。
このコントラストに悩んであろうムスタファ・ケマルは
苦悩するエネルギーの吐け口を怪しげな政治活動に求めた。
丁度、コルシカ独立に熱を入れたナポレオンの様に。
国家の財政で養われている分際で政府転覆を目指す集団に身を寄せる。
普通ならば仕官学校からの退学はもとより、
処刑されて文句を言える筋合いではない。
だが、実際は改革派と保守派との抗争が年中行事と化した
−これはオスマン後期の伝統ある行事でもあるが−
彼の帝国ではそこまで手が回らず、
寧ろ、迫り来る列強から身を守る為に
本業では優秀だった彼の手腕を活かすべく
将軍(パシャ)として活用せねばならなかった程であった。
その判断は『トルコ』を守るのには有効ではあったが、
『オスマン』を守るのには致命的な失策だった。
第一次世界大戦においてドイツ側、つまり敗戦国側に立ってしまった
彼の国において祖国防衛の為に奮闘した彼は名声と人望を高めて、
次第と政治の世界にも進出しはじめる。
そしてイギリス・フランス等による完全植民地化の危機に晒された祖国を
民族自決が最新モードであった当時の国際情勢に
助けられた面があったにせよ良く守り、
様々な紆余曲折を経て祖国の独立、並びにオスマン王家の
『平和的な』国外退去を実現させる。
ここまでなら別に彼でなくても可能だったかも知れない。
だがムスタファ・ケマルが非凡だったのは
その後の建国作業において性急なまでの『欧州化』を志向して、
一定の成果を収めた点にある。
伝統的なアラビア文字を廃止してアルファベット文字を取り入れ、
国民全員に『姓』の使用を義務付け
(『アタテュルク』は姓に当たり『国父』を意味する)
男性絶対主義だったイスラム社会で女性の社会進出を促進する。
政治的には独立を維持したとは言え、
経済的に欧州の意向を気を配る必要がある立場では
(丁度、敗戦後の日本の様に)
こう言った路線を選択せざるを得なかったのであろうが、
閉塞感に覆われていた当時のトルコ社会に受け入れられる様に
微妙な調整手腕を発揮ではたのは
仕官学校時代のカルチャーショックが影響していたのかも知れない。
57歳で死に至る肝硬変を引き起こした大好きなお酒と
女性恐怖症のくせに娶った美人妻に囲まれながら。
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