『自由・平等・博愛』と言う民主主義の気高い理想を旗印に戦った
フランス革命も次第と王制との血で血で洗うデスマッチと言う
現実とのギャップに苦しむ様になる。
価値観の違う相手との戦いに妥協はなく、
勝利する為には『総動員体制』を敷かねばならない。
だがそれは民氏主義の旗印を自己否定するものであり、
旗手であるナポレオンにも辛い現実を(一時的にも)忘却させる
『民族主義』と言う酒を用意する器量が不足していた。
1814年4月4日。
ナポレオン・ボナパルトは降伏を余儀なくされ、
アウステルリッツから約十年に渡った
『ナポレオン戦争』もようやく終息したかに見えた。
だが元々フランス革命は狭い欧州の複雑な利権争いに敗れ、
政治・財政の両面で破綻した『負け組』フランスの逆襲に
端を発しただけに容易には意見(利権)の調整がつかなかった。
しかも『勝ち組』ロシア・オーストリア・プロイセン・イギリスは
何れも莫大な戦費を消耗しおり、少しでも負債は回収せねばならない。
そしてこれまではぎりぎりの所で内部分裂を回避出来た
唯一の接着剤『ナポレオン打倒』は既に溶け去っている。
かくして『会議は踊る、されど会議は進まず』と評される優雅な舞踏会と
高金利金融業者並みのえげつない『取り立て』が同時に進行される。
この『何とかしたいけどどうにもならない』事態を救ったのは
やはりというか嘗ての『接着剤』だった。
エルバ島を脱出したナポレオンが表舞台へのカムバックに成功、
彼への恐怖が諸国に解決の糸口を与える。
『いっその事、ナポレオン登場以前の状態に戻せば良い』
この辺りがワーテルローに勝利したとは言え、
革命の理想に触発された『臣民』達の動向が気になる諸国の落し所だった。
こうしてナポレオン・ボナパルトの栄光に隠れ、
余程の物好きでもない限りは誰も注目しない、
それでいて重要な政治体制が何とか確立された。
本質的に時代に逆行する政治体制だったウイーン体制は
潮流に抗えるだけの強大な力を必要としていた。
そしてこの場合の『力』とは精神的な拠り所であるイデオロギーと
民衆蜂起を抑えられるだけの現実的なパワーである。
この内、前者に相当するのが神聖同盟であり、
後者を代表するのが五国間同盟であろう。
ワーテルローの衝撃醒めらやぬ1815年9月。
ロシア皇帝アレクサンドル一世はキリスト教の理念である
正義とと愛と平和に基づく君主間の盟約を
オーストリア皇帝とプロイセン王に提議する。
前述した複雑怪奇な利害調整にうんざりしていたのだろうか、
両国ともこの抽象的且つ理想主義的なこの盟約に参加する。
やがてイギリス王・ローマ教皇・トルコ皇帝を除く
欧州の各国はこの実益は無いものの国民の支持を得られやすい
(欧州におけるキリスト教の影響については今更論ずる必要はない)
この盟約に参加、ウイーン体制の強化へと繋がっていく。
これに対して政治の生臭さを率直に現すのが五国間同盟である。
と言うのも当初この同盟はナポレオン戦争の勝者である
イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの『四国間同盟』だった。
だがセント・ヘレナに流したナポレオンの再々起がないと見るや、
足元に爆薬を抱え込んでいるフランスをも利益共同体とするべく、
興奮が収まり始めた3年後にアーヘンで開いた会議にフランスを招き入れる。
勿論、爆薬を抱え込むフランスに異存はない。
こうしてナポレオン後の政治体制は固まったかに見えた。
だがまだまだ資本(帝国)主義にる無邪気な発展が続いていた欧州で
一度味わった美味なる果実を忘れろと言うのは無理な話である。
そしてウイーン体制崩壊を招く爆現地は大方の予想通り、
ナポレオン伝説が流布していたフランスだった。
1848年2月、後の共産主義に繋がる思想を掲げて勃発した革命は
瞬く間に欧州各地へ広がる。
さらに翌月にはウイーン体制の立役者である
オーストリア宰相・メッテルニヒの没落(政治亡命)をも招くと、
隣国ドイツの地でも統一国家の形成と憲法の制定が真剣に議論される。
尤もドイツの場合は革命の遂行を担うブルジョワジーが未発達であり、
結局の所は体制派がぎりぎりの所で押し返される。
だが民主主義の欲望を抑えつけ、
絶対王制の維持が困難である事は誰の目にも明らかであり
以後、欧州各国はその妥協点に思い悩む事となる。
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