現在、一応は勝ち組に入っている日本のフットボールであるが
一体何時頃からそういう立場になれたであろうか。
知名度という点では90年代以降と言うのには議論の余地はない。
だがマスコミに拠って注目されたのはその時が始めてでないのは、
68年の銅メダルが立証している。
ここで取り上げるのはあくまで
『実力的にメジャーと言うべき立場に位置した』瞬間である。
メキシコ以降、明確な目的が見つけられずに徒に日数を浪費していた
極東の小国が久し振りに向上意欲を掻き立てたのは
1978年のワールドユース開催国に選ばれてからである。
現在のW杯や東京五輪同様にホストカントリーとしての責任感、
と言うよりみっともない成績は残せないと言う恥の概念が
長期的且つ集中的な強化日程を編み出し、実行させた。
と言っても時代は努力と根性が幅を効かせていた頃であり、
2引き分け1敗の結果が示す様に(当然予選リーグ敗退)
必ずしも強化の方向性が正しかった訳ではない。
だが唯一の得点を挙げた水沼貴志や風間八宏の様に鍛え上げられた
素材が後に日本リーグを引っ張る存在になった事を考えれば
(因みに川平兄弟はこの大会に優勝したマラドーナの元に乱入したそうな)
全くの無駄と言う訳でもなかった。
勿論、85年W杯予選と87年ソウル五輪予選の奮闘も
この時の影響を受けている。
当時のメンバー全員がフル代表入りしていなかったにせよ、
『世界』と言う空気を僅かながらも感じ取っていた感覚が
無意識の内に『日本人に合ったフットボールの形』を生み出していた。
予選の組み合わせ自体は運にも助けられたものの
(85年は中国が勝手に敗退・87年は韓国が開催国だったので予選免除)
それぞれの役割がはっきりしていた
『全日本』代表は『後一歩』と言う所にまで辿り付いた。
しかしながら最終決戦の試合内容に厳然たる実力差があったのも事実であり、
以後に訪れる『暗黒の時代』は足りない物を模索する期間でもあった。
「こんな所でW杯予選を行うのか」と相手国の監督に馬鹿にされ、
予選6試合中4試合が無得点で終った
89年のイタリアW杯一次予選は当然の様に敗退する。
おまけに韓国・中国・北朝鮮極東4ヶ国が集った
ダイナスティカップでは三戦連続完封敗けと言う体たらく振り。
アジアチャンプに輝き、名ばかりとは言え大陸王者同士の大会で
決勝進出を果たした現在では想像も出来ない話だが、
これがワールドユースの貯金が無くなった
80年代末から90年年代初頭の『全日本代表』だった。
そんな全日本が『日本代表』へと進化したキーワードは『外資』だった。
セミプロのクラブから引っこ抜いたブラジル人ミッドフィルダー、
足の遅さを技巧でカバーするブラジル産のレフトウインガー、
そしてチーム運営の術を知るオランダ人。
この三者の仲が必ずしも良かった訳ではないが
(良く言って大人の間柄だった)
『W杯出場』と言う野心に彩られた間柄が発するオーラは
想像以上の力を発揮していた。
フォーメーションはシンプルな4−4−2。
基本戦術はトライアングル・アイコンタクト・スモールフィールド。
この指標自体は80年代半ばの『あと一歩』の時代と同じであり、
フットボールを知る者の常識と言って良い。
(実際、当時の練習を見た外国人コーチは『ユースレベルだ』と蔑んだ)
違いと言えばオランダ人の方がカタカナで表現した事くらいだろうか。
だがこれだけでも前述したダイナスティカップとアジアカップを制覇した。
そしてこの事実は野球における投手の様に
『上手い奴を11人集めれば勝てる』と思われた
この国のフットボール文化に新たな流れを呼び込み、
以後『組織を重視する』一大ムーブメントを生み出す。
力量的には本選に進んでもおかしくなかったこのチームも
結局は『あと一歩』に止まったのだが、それには幾つか理由がある。
11人だけしか鍛えない戦略の元では既に上がり目がなかった事。
(スーパーサブの爆発は計算外だった)
『研究される』立場に慣れていなかった事。
(対アジア勢唯一の敗北であるイラン戦が良い事例)
そして当時のフットボール文化では
旧時代の軋轢を拭い切れるパワーを持ち得なかったからである。
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