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2002年8月12日
西部戦じゃないね
篠栗・一の滝寺 |
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所用があって篠栗へ行ったついでに「一の滝寺」を訪れた。
JR筑前山手駅から北へ。 ちょこっと登ると駐車場がある。
右手に霊園を眺めつつ歩くと「一の滝寺」。 小川を跨ぐ小橋を
渡って境内(お寺でも境内というのだろうか?)へ。
御札などが置いてある一角の先に、寺の名にもなった滝が、ちょっと
水量は少ないが、ツボにハシゴなど置いてあるが、落ちていた。
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 一の滝 |
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「篠栗遍路図」によると、この川の上流に「神代の滝」があるはずである。
ちょっと行ってみましょ、と登って行くと100mで舗装はなくなり、その先は
草むす登山道である。 「不動院・奥の院」「神代の滝」と看板があるから
これを歩くのであろう。 5分後砂防ダムを越える。 10分後もうひとつの
砂防ダムを越え、15分後 もうひとつの砂防ダムを越え、20分後 滝に
行き着くより先に時間が尽きた。 「完」
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2002年8月22日
対西部戦線・第14戦 背振編
後鳥羽伝説を訪ねて |
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お盆の高速道は渋滞するので、ワシントン家では一週遅れの本22日未明は
墓参り記念日。 6時21分にワシントン邸をスタートし、そそくさと墓掃除を
済ませ、宇土(熊本県)を後にした。
そして、東脊振インターに10時34分到着。 既に250kmオーバー。
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佐賀県道31号線を西へ行き、川久保で県道51号を
北へ。 さらに鹿路(ろくろ)神社で県道209号を西へ
折れて、ちょうど1km。 道路から見下ろせる位置に
「鹿路の滝」インサイト。 道は狭いが滝の前後50m
にそれぞれ1台分の駐車スペースがある。
滝は落差6mくらい。
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鹿路の滝
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跳ねるところ
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ライトグレーの岩肌を、末広がりに、所々はねながら落ちる。
もう10日以上も雨が無いので水量に不安はあったが (この夏の
北部九州は近年にない渇水で、昨日の新聞では断水すら囁かれた
ほどだ)、ちゃんと流れていて安心した。
滝上に、ちょっとした渓谷がある。 その手前の用水にはメダカも
泳いでいる。
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 ちょっとした渓谷 |
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なお、ここの駐車場には「鳥羽院ふるさと自然公園」という地図看板があるが、
これはちょっと作ってほしくないタイプの公園で、
地元の人には悪いが、 「自然破壊公園じゃん」と思ったことであるよ。
まぁ小規模なものなので、それが救いとはいえるのだが。
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後鳥羽上皇ひとくちメモ
ワシントン歴史公文書館所蔵 「華盛頓書紀」 第28巻 P256より抜粋
後鳥羽上皇の事跡を理解するには、なぜ幕府が成立したか?を知っておかねば
ならない。
平安時代までは天皇と藤原氏を中心とする公家政治であったわけだが、これは
現代の族議員や予算を取るほど出世するといわれる高級官僚同様、欲深いだけの
(政治的には)無能者の集団であり、当時もっともトラブルの多かった所領争いの
調停について、ロクな調査もせず(たぶんに賄賂の多寡で)判決を下してばかりいた。
このため農民は、自分の土地は自分で守らざるを得なくなり武装化、ここに武家が
生まれた。 武家と公家政府はたびたび衝突(例えば平将門である)していたが、
ついに武家の平氏が政治の実権を取るにいたるも、権力を手に入れた途端、
公家化(つまり政治的無能者)してしまった為、東国の不満武家が源頼朝を旗頭にして、
平氏を駆逐、天皇や公家を実権無きものにしてしまう。
しかし、あろうことか
源氏の2代目、3代目も平氏や公家と同様の政治を始めそうになり暗殺される。
次の北条氏は公正な裁判を実施し得るマトモな政治集団だったので、ついに全国の
武家・農民の支持が得られたのである。
しかし、ここに1人北条氏を恨んでる者がいた。それが政治のトップから転落した
天皇家の中に生まれた後鳥羽である。 彼は、知力も胆力も武勇も備え、
自分で刀剣すら作ってしまうというスーパーマンだった。 そこで彼は天皇を
中心とする公家政治の復活を夢見て倒幕の軍を興すのだが(これを承久の変という)、
公家政治のいい加減さには全国民がウンザリしていたので(現代のどこかの国の
ようだ)、あっけなく破られ、後鳥羽は隠岐へ島流しにされたのである。
なお筆者は、後鳥羽上皇がこの地に逃れ来ったという伝説をモチーフに
「後鳥羽伝説殺人事件」というミステリーを上梓した。(ウソ)
探偵役は、藤太という男が編集長を務める「滝と歴史」という雑誌に原稿を書く、
朝見光彦左衛門というフリーのウソライターであることは言うまでもない。
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