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明史巻二十二

列伝第十

郭子興
(子興なきあとの話)

 

 子興三子あり。長子前(さき)に戦死し、次は天敍、天爵なり。子興死し、韓林児は天敍に檄し都元帥と為す、張天祐及び太祖之を副たらしめる。天祐は、子興の婦弟なり。太祖江を渡る、天敍、天祐は兵を引きて集慶を攻め、陳野先叛く、倶に殺を被る。林児復た天爵を以って中書右丞と為す。すでにして太祖平章政事と為す。天爵職を失い怨望す、之久しくして不利を太祖に謀り、誅死せられる、子興の後遂に絶える。一女有り、小張夫人から出ずる者なり、太祖に事(つか)えて恵妃と為る、蜀、谷、代の三王を生む。
 子興には三人の息子がいた。長男は前に戦死しており、その次は天敍、天爵である。子興が死ぬと、韓林児は天敍に檄をして都元帥とした。張天祐と太祖はその副官とした。天祐は子興の女房の弟である。太祖は長江を渡った。天敍と天祐は兵をつれて集慶(今の南京)を攻めた。陳野先が叛き、天敍と天祐はともに殺されることになった。林児は再び天爵を中書右丞(長官)とした。すでに太祖を平章政事(副官)としていた。天爵は職を失いそれを怨んだ。天爵は太祖を不利にしようと謀をめぐらすが、(太祖に)誅死させられる。子興の子孫はついに断絶した。一人の女性がいあた。小張夫人から生まれた者である。太祖につかて恵妃となり、蜀、谷、代の三王を生んだ。
・韓林児・・・郭子興らの親分にあたる。
・天爵職を失い怨望す・・・職を失ったとあるが、副官の太祖に実権を握られたということか。

 

 洪武三年子興を追封してチョ陽王と為す、有司に詔して廟を建て、中牢の祀(まつり)を用い、其の隣の宥氏を復(ほく)して、世世王墓を守らしむ。十六年、太祖手で子興の事蹟を書す、太常丞の張来儀に命じて、其の碑を文(かざ)らしめる。チョの人の郭老舎なる者、宣徳中チョ陽王の親を以って、京師に朝する。弘治中、郭琥有り、自ら四世祖は老舎と言い、チョ陽王の第四子、冠帯奉祀を予(あた)う。すでに、宥氏のあばく所と為る。礼官言わく
「チョ陽王の祀典、太祖の定める所なり、後無しと曰く、廟碑昭然なり、老舎チョ陽王の子に非ず。」
奉祀を奪う。
 洪武三年、子興をチョ陽王と追封した。役人に詔をさして廟を建てさせ、中牢の祀を行った。そして廟の隣の宥氏の徭役を免除し代々王墓を守らせた。十六年、太祖は自ら子興の業績を書き、太常丞の張来儀に命令して、その碑を書かせた。チョの人の郭老舎という者は宣徳中にチョ陽王の近親のものということで朝廷で政治にたずさわった。弘治中、郭琥というものがいた。自分で四世祖(祖父の祖父)は老舎であり、チョ陽王の第四子(の子孫)といったので、(朝廷に出廷するための)冠、帯、先祖を祀る権利を与えた。すでに宥氏にあばかれていた。礼官はいった
「チョ陽王の祀の儀式を示した書物は、太祖が定めたものである。子孫はいないと書いてあり、碑をみればそれは明らかである。老舎はチョ陽王の子孫ではない。」
先祖を祀る権利を奪った。
・廟・・・墓
・洪武元年・・・1368年、三年は1370
・中牢の祀り・・・皇帝に近いものを祀る。牛と豚を捧げる。
・復して・・・家を復興させるという意味でなくこの場合は徭役を免除する。
・宣徳・・・1426年〜1436年
・弘治・・・1488年〜1506年
・礼官・・・六部の礼部の役人

 

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