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明史巻二十二

列伝第十

郭子興

 

 

 郭子興、其のさき曹州の人。父は郭公、少(わかく)して日者(にっしゃ)の術を学ぶもって定遠に遊ぶ、禍福を言うにすなわち中(あた)る。邑(むら)の富人に「こ女」有り帰する所無し、郭公すなわち之を娶る、家日に益(ますます)饒(ゆた)かなり。三子生まれる、子興其の仲なり。初めて生まるや、郭公之を卜し吉なり。及び長ずるに、任侠、賓客を喜ぶ。
 郭子興の先祖は曹州の人である。父は郭公。わかくして占いの術を学んで定遠をうろつていた。禍福をいいあてると、あたった。村の金持ちに、目が見えない娘(「こ女」はそういう意味である)がいた。そのため彼女はとつぐ所がなかった。郭公はこれを娶った。家はますます豊かになった(つまり郭公は人の禍福だけでなく自分の禍福を占えることができたということか)。三人の子どもが生まれた。子興はその真中の子であった。子興がうまれると郭公は子興を占った。結果は吉であった(賊の大将になるようなのが吉というのはなんだかという感じがするが、皇帝になる男を導くというところからみれば吉といえるか)。成長していくと任侠になり客がくることを喜んだ。
・郭公がこ女を娶って家が豊かになった・・・郭公は人の禍福だけでなく自分の禍福も占えたのでないだろうか。
・子興を占ったときに吉とでた・・・賊の大将になる男が吉というのはなんだかなあという感じがするが、後の皇帝を導いたとなれば吉といえるか。

 

 元の政の乱れるに会し、子興は家資を散じ、牛をつき酒をかもす、壮士と結納(けつのう)す。至正十二年春、少年数千人を集める、襲いて濠州みヨル。太祖(朱元璋)往きて之に従う。門者其れ諜と疑いて、執らえもって子興に告げる。子興は太祖の状ぼうを奇とし、縛りを解きともに語る、帳下に収め、十夫長と為す、数(しばしば)戦いに従い功有り。子興喜ぶ、其の次妻の小張夫人亦(また)太祖を指し目して曰く
「此れ異人なり。」
すなわち撫する所の馬公の娘をもって妻(め)あわす、是れ孝慈皇后と為る。
 元の政治が乱れると、子興は財産をパーっと使って、牛をつぶして酒を用意し、壮士とよしみをかわした。至正十二(1352)年の春、若者数千人を集める。濠州を襲撃してそこを占拠する。太祖(朱元璋)はそこにやってきて子興に従おうとした。門番は太祖を間諜だと思って捕えて子興に告げた。子興は太祖の顔をめずらしく思って、縛りをとって一緒に語った。部下にして十夫長とした。よく戦いについていき功績があり、子興はそれを喜んだ。子興の次妻の小帳婦人もまた太祖をさしていった
「この人は普通の人ではなく優れた人である。」
と。子興は自分の庇護下にあった馬公の娘を太祖とめあわせた。この娘はのちに孝慈皇后となった。
・少年=若者
・太祖・・・朱元璋のこと。明史では基本的に記述は太祖となっている・
・朱元璋が怪しいものとして捕えられたことは本紀にはのっていない。
・異人=普通の人ではなく優れた人。悪い意味ではない。

 

 始め、子興と同(とも)に事を起こす者は孫徳崖等四人なり、子興とともにして五なり、各(おのおの)元帥を称し相い下らず。四人の者粗くしてトウ、日(ひび)ヒョウリョウし、子興意之を軽んず。四人悦ばず、合い謀りて子興を傾けんとす。子興は是をもって多く家居して事を視ず。太祖は間に乗じ説きて曰く「彼日(ひび)益(ますます)合い、我益(ますます)離れる、之を久しくし必ず制するところと為らん。」子興従うこと能わず。
 最初、子興とともに行動を起こしたのは孫徳崖達四人で、子興とあわせて五人であった。それぞれ元帥を称してお互いに相手に下ろうとしなかった。四人のものは荒っぽく、日々略奪をしていた。子興は彼らを軽く見ていた。四人は不快に思い、いっしょに謀って子興をおとしいれようとした。子興はこのため家にいて政治の仕事をしないことが多くなった。太祖は子興の暇なときに子興にいった「彼らは日々ますます親しくなり、あなたはますます孤立している。このままではいつか制されてしまうでしょう。」しかし、子興は太祖の言葉に従おうとしなかった。

 

 元の師は徐州を破り、徐の帥・彭大、趙均用余衆を帥(ひき)いて濠に奔る。徳崖等は其れ故(もと)盗の魁にして名有るをもって、すなわち共に之を推して奉じ、己の上に居らしむ。(彭)大は智数あり、子興ともに相厚くしこうして均用薄(うと)んず。是において徳崖等諸(これ)を均用にせんすに曰く
「子興は彭将軍有るを知るのみ、将軍有るをしらず。」
均用怒りて、間に乗じ子興を執らえ、諸(これ)を徳崖の家に幽す。太祖は他部自(よ)り帰る。大いに驚き、急いで子興のニ子を帥いて(彭)大に訴える。大曰く
「吾れ在り、いずくんぞ敢えて魚肉の翁なる者ならんや。」
太祖とともに徳崖の家を詣でる、械を破り子興出ずる、之を挟(たばさ)みて帰る。
 元軍は徐州を破った。徐の元帥の彭大と趙均用は残った兵をつれて濠州へと逃げていった。徳崖等は彼らがもともと賊の頭領として有名なので、彼らをうやまって己の上にさせた。彭大は知識があり謀があり、子興は彭大と緊密になり、均用をないがしろにした。そこで徳崖達は均用に密かに言った。
「子興は彭将軍ばかりを気にかけ、将軍のことは気にかけていない。」
と。均用は怒ってすきをみて子興をとらえて徳崖の家に幽閉した。太祖は他の部(軍)から帰ってくると非常に驚き、急いで子興のニ子を率いて彭大に訴えた。彭大は
「俺が居る。どうしていいようにされようか。」
といって、太祖と一緒に徳崖の家にいった。枷を破って子興は脱出し、子興をはさんで帰っていった。
・智数・・・智は知識がある。数は謀やたくらみという意味
・魚肉の翁・・・魚や肉のようにいい具合に調理される(いいようにされる)こと。翁の意味は不明

 

 元の師は濠州を囲む、すなわち故(もと)の憾(うら)みを釈し、共に城を守ること五閲月。囲みが解かれ、大、均用皆自ら王を称す、しこうして子興及び徳崖等は元帥と為ること故(もと)の如し。未だ幾ばくならずして、(彭)大死し、子の早住が其の衆を領す。均用専ら恨むこと益(ますます)甚だし、子興を挟さみてクイ、シ州を攻め、将に之を害さんとす。太祖すでにチョ(州)を取り、すなわち人を遣りて均用を説いて曰く
「大王窮迫せん時、郭公は門を開きて延納する、徳は至厚なり。大王報いること能わず、反って細人の言を聴き之を図る、自ら羽翼をたち、豪傑の心を失わんとす、密かに大王の為に取らざるなり。且つ其の部曲は猶お衆(おお)し、之を殺せば悔い無きを得んや。」
均用は太祖の兵が甚だ盛んなるを聞き、心之を憚る、太祖又人を使わし其の左右に賄(まいない)せしむ、子興是をもって免れるを得る、すなわち其の所部萬余を将(もって)太祖にチョに就かしむ。
 元軍は濠州を囲んだ。そのため元もとの憾みを許して、一緒に城を五ヶ月間守った。囲みが解かれると、彭大と均用は皆自ら王を名乗り、子興や徳崖はもとのように、元帥となった。しばらくして彭大が死んでしまい、その子、彭早住が彭大の軍団を引き継いだ。均用は子興をとても恨んでおり、子興と一緒にクイ、シ州を攻めて、子興を殺そうとした。太祖はすでにチョ州をとっており、人をやって均用を説得した
「大王(均用)が危機におちいったとき、郭(子興)公は門を開いて収容してくれました。徳は非常に厚いです。大王はそれに報いることができておりません。そればかりか、つまらない人間の言うことを聴いて郭公を殺そうと図っております。それは自ら翼をたって、豪傑の心を失うことになります。私が大王でしたらそのような方法はとりません。また、郭公の兵隊は大勢います。郭公を殺せば悔いが残ることになりましょうぞ。」
均用は太祖の兵の勢いが盛んであることを聞いて、郭子興を殺そうとしたのをためらった。太祖は人を遣わして均用の側近のものに賄賂を送ったりもした。こうして子興は殺されずにすんだ。そしてその兵数万以上を太祖にあたえチョ州にむかわせた。
・クイ・・・「目干」「目台」
・シ(州)・・・さんずいに四
・チョ(州)・・・さんずいに除

 

 子興の人と為り梟悍(きょうかん)善闘、しこうして性こう直、容少なし、事急なるに方(あた)り、すなわち太祖の謀議に従いて、親信すること左右の手の如し。事解かる、即ち讒を信じ太祖を疎んず。太祖の左右事に任ずる者は悉く召して之を去らしむ、稍(ようやく)太祖の兵柄を奪う。太祖は子興に事(つか)えて愈(いよいよ)謹む。将士献ずる所有れば孝慈皇后すなわちもって子興の妻に貽(おくる)。
 子興は獰猛で争いをこのみ、性格は頑固で人のいうことをきかない。物事が大変になると太祖の意見に従って、信用することは左右の手のようである。大変なことが去ると讒言を信じて太祖を遠ざける。太祖の側近のものを次々と自分のところへ召し上げて、太祖のもとから離れさせた。そして、太祖の兵権を奪った。太祖は子興に対しより身を謹んでつかえた。将軍や兵士が太祖に戦利品などを持ってこれば孝慈皇后がそれらを子興の妻へとおさめた。
・郭子興はあまり度量のある人間ではなかったようだ。ピンチになると太祖にすぐ頼るくせに、ピンチがさると冷遇する。太祖の力に怯えていたともいえるか。

 

 子興チョに至り、よりて以って自ら王ならんと称す。太祖曰く
「チョは四面皆山、舟楫(せんしょう)商旅通ぜず、旦夕安んず可き者に非ざるなり。」
子興すなわちやむ。和州を取るに及び、子興は太祖に命じて諸将を統べさせ其の地を守らしむ。徳崖飢え、食を和境に就(もと)む、城中に駐軍を求む、太祖之を納める。子興に讒する者有り。子興夜和に至る、太祖来て謁(まみ)える、子興甚だ怒る、ともに語らず。太祖曰く
「徳崖嘗て公を困らす、宜しく備えを為すべし。」
子興黙然。徳崖は子興至るを聞き、引き去ることを謀る。前営すでに発つ、徳崖方(まさ)に留まりて後軍を視る、其の軍闘い、死者多し。子興は徳崖を執らう、太祖亦徳崖の軍の執らう所と為る。子興之を聞きて、大いに驚き、立ちどころに徐達を遣わし往きて太祖と代わらしめ、徳崖を縦(はな)ちて還らしむ。徳崖の軍太祖を釈き、(徐)達亦脱して帰る。子興は徳崖を憾むこと甚だしく、将に甘心せんとする、太祖の故を以って強(し)いて之を釈す、邑邑楽しまず。未だ幾ばくならずして、病を発し卒(しゅつ)す、帰りてチョ州に葬る。
 子興はチョ州にやってきた。そして王を名乗ろうとした。太祖はいった
「チョ州は四方を山に囲まれ舟はいきかわず、やってくる商人も少ない。つねづね安心できる場所ではありません。」
すると子興は王となるのをやめた。子興は和州をとると太祖に命じて諸将を統率しそこを守らせた。徳崖は飢えており和の境に食をもてめてやってきて、城中に駐軍することを求めた。太祖はそれをききいれ軍をいれてやった。子興に讒言する者がいた。子興は夜になって和についた。太祖はやってきて子興にあったが、子興はとても怒っており話をしなかった。太祖はいった
「徳崖は昔、公(郭子興)を困らせました。ちゃんと備えをしておいてください。」
子興は黙って納得した。徳崖は子興がやってきたのを聞いて、去ることを謀った。前軍はすでに出発し、徳崖は残って後軍を指揮した。子興の軍と戦って、大勢の死者がでた。子興は徳崖をとらえた。しかし太祖もまた徳崖の軍に捕らわれてしまった。子興はそれを聞くととても驚いて、すぐに徐達を遣わして太祖と交代するようにし、徳崖を解放して還らせた。徳崖の軍は太祖を解放し、徐達もまた脱出して帰った。子興は徳崖をとても憾み、心に思いつづけた。太祖はそのため徳崖への恨みを許すように強くいった。うれえるさまは楽にならなかった。しばらくして、病にかかり死亡してしまった。チョ州に戻ってほうむった。
・チョ州は四面を山に囲まれている。防衛にはむいており、城の条件としてはよいようだが、逆にいえば交通の便が悪く、進出もしにくい。郭子興は中国の覇者になろうというよりも、チョの王にでも落ち着こうと思っていたのかも。
・徐達が脱出したとあっさりかかれているが、どうやって脱出したかはここからではわからない。

 

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