誕生!バフリー・マムルーク |
バイバルスは『バフリー・マムルーク』という組織に所属していたマムルークである。
バフリー・マムルークはアイユーブ朝のスルタン・サーリフが所有していたマムルーク軍団である。バフリー・マムルークといわれるゆえんは、彼らの兵営がナイル河にうかぶローダ島にあったからである。「バフル」の本来の意味は海・・・しかし、カイロでバフルといえばナイル河をさす。ゆえにナイル河の中にすむ彼らはバフリー・マムルークと呼ばれた。
ローダ島は兵営であるが、同時にマムルークの養成機関であった。「マムルークとは?」でも、紹介しているように、マムルークは生まれもってマムルークではなく軍事教育をうけた後、戦士として戦うことになる。
サーリフがつくったこのバフリー・マムルークはサーリフの先代スルタンがもっていたマムルークではなく、サーリフが新たに買い求めたマムルークである。サーリフはバフリー・マムルークを創設する際、その編成をキプチャク族人のクマン族に絞っていた(ちなみにサーリフはバフリー・マムルーク以外にもマムルーク部隊を持っていた)。
なぜキプチャク人かといえば、当時、イスラム世界はモンゴルの侵攻という未曾有の危機にさらされていた。モンゴルは騎馬による格闘戦だけでなく馬上から矢を射る騎射を得意としていた。日本にも流鏑馬(やぶさめ)という馬を走らせながら弓を射るという戦術というか技術があるが、アラブの騎兵や、ヨーロッパの騎兵は突撃専門であり、馬を走らせながら弓を射る「騎射」という技術をもちあわせてはいなかった。キプチャク人はモンゴルと同じ遊牧民族であり幼少のころより騎馬に親しんでいる。そして、その中でもクマン族を欲していたのは、クマン族がモンゴル(ジュチとバトゥ)によって追い散らされており、モンゴルに対する復讐心を抱いていたからである。対モンゴルの際には力を尽くしてくれるだろうというわけだ。
サーリフは騎射部隊の養成に力を注ぐとともに、モンゴルの装備・戦術を研究し積極的にとりいれていった。おそらく当時の世界においてモンゴルの戦術・戦法は最先端であったのではないだろうか?
サーリフの保持した、このバフリー・マムルークは約一万人といわれている。サーリフはマムルークを私兵として保持していたわけだから莫大な資金が必要であると考えられる。だが、当時のエジプトには十分な財源があった。エジプトはナイルのたまものといわれるように、農業が盛んであったことと、インドや東南アジアのスパイスは紅海からエジプトへはいりアレキサンドリアより、ヨーロッパへと流れていく。その際に発生する通課税がサーリフのふところにはたんまりとはいっていたのだ。
話がそれるが、このスパイス・ルートがエジプト経由であったことが、マムルーク朝が長期に渡って栄えた理由の一つである。そして、新航路の発見によってヨーロッパ人が直接、インドにいくようになると、だんだんとエジプトのスパイス流通は衰えていき、ひいてはマムルーク朝の国力の衰退へと繋がっていくのである。
サーリフがローダ島に兵営をおいたのは何故だろうか? 恐らく、マムルークが街にでて横暴な行動をとらないように、あえて隔離させたのではないだろうか。サーリフ自身、このバフリー・マムルークが相当気にいっていたらしく、兵営でマムルークと共に眠ることもあったという。
サーリフの尽力と思い入れにより、バフリー・マムルークは精鋭軍団として成長していく。シリアやパレスティナでおきた紛争をおさめるなど、サーリフの期待にこたえた働きをするようになる。
元来、対モンゴル戦に備えて養成された彼らだが、最初の強敵は十字軍であった。しかし、この十字軍侵攻の際、彼らの主人である、サーリフは病の床についていた・・・。
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