決戦!! アイン・ジャルート |
●決戦への道●
モンゴル帝国の中東遠征軍はついに地中海に達した。フラグはここでエジプトのマムルーク政権に対して、エジプトの全面降伏を促す使者を送った。これに対しクトズは使者を一刀のもとに切り捨てザウィーラ門にその首をさらした。マムルーク政権はモンゴルと戦う腹を決めているのだ。時代はもう少し後になるが、日本の鎌倉幕府もモンゴル(フビライハン)からモンゴルに臣従を求める使者がきたときに、その使者を切り捨てている。
フラグはエジプトに対し降伏を促す使者をおくったものの、彼はその後すぐ、このシリアの地を離れなくてはいけなくなってしまう。フラグの兄・モンケが崩御し、モンゴル帝国のハンの位をめぐってフラグの兄・フビライ(フビライはモンケ崩御の際、南宋に攻撃を加えており中国にいた)と、弟のアリク・ブカ(アリク・ブカはモンゴルにいた)が争いをはじめたのである。フラグは兄・フビライに加勢するために急旋回し、モンゴル高原へと帰っていった。しかし、アリク・ブカは中央アジアをおさえようと動き出したため、フラグは結局、アゼルバイジャン(カスピ海の南方)にとどまらざるをえなくなってしまった。そしてエジプトの攻略はシリアに残してきた彼の腹心、キトブカに委ねられた。フラグはまだマムルーク政権の実力をまだ知らない・・・。
十字軍によってうちたてられた国家であるアルメニア王国とアンティオキア公国、トリポリ伯国はフラグの遠征軍と合流してシリアのアイユーブ朝の各都市の攻略に力を貸していた。彼らにとってみれば敵対者であるイスラム諸国を滅ぼしてくれるモンゴル軍はまさに救世主であった。フラグの妻はネストリウス派のキリスト教徒であったこともあり、フラグは彼らキリスト教国に好意を示していた。ネストリウス派はかつて異端審査会によって異端とされローマ帝国から追放されたが、その追放したネストリウス派によりキリスト教が東方に広がったことにより、モンゴルが十字軍に対して友好的な姿勢をもつようになったといのは、なんとも皮肉な話である。
アンティオキア王国とトリポリ伯国の両国を支配するボエモンは、シリアの沿岸に位置するエルサレム王国(とはいってもこの時点ではエルサレム王国はエルサレムを領有していないのだが)をこのモンゴル連合軍に組み入れようと話をもちかけた。しかし、エルサレム王国の諸侯はモンゴル人は狗よりも汚らわしく、ムスリムよりも野蛮であるとして耳をかさなかった。モンゴルのダマスカスなどでの徹底した殺戮・略奪・破壊がエルサレム諸侯達にモンゴルに対する嫌悪感を植え付けてしまったのだろうか? さらにシドンのジュリアン伯は、パトロール中のモンゴルの小隊を襲撃し、モンゴル軍の司令官であるキトブカの甥を殺してしまう。怒ったキトブカはシドンを破壊してしまい、エルサレム王国の一部の諸侯はモンゴルを恐れエジプトに救援を求めることになった。
マムルーク政権はモンゴルからの使者の首をはねると、十二万の大軍を率いてシリアのサーリヒィヤへと向かった。前衛軍を率いるのはバイバルス、そしてスルタンのクトズもこの未曾有の国難に対して自ら軍を率いて出陣した。マムルーク軍団の先鋒はガザに入るとすばやい攻撃でモンゴル軍の先遣隊を増援部隊が来る前撃破することに成功する。
そしてバイバルスはフラグがダマスカスを去ったことを密偵の報告で知り、後方のクトズにこの旨を伝え、迅速にダマスカスを襲撃することを提案した。
クトズが気がかりだったのはシリアの地中海沿岸部に存在する十字軍国家であった。軍事力は大したことはないといっても、モンゴルと連合されては背後をつかれる危険性がある。エルサレム王国の一部の諸侯はエジプトに救援を求めてきているが、他の諸侯はどう動くだろうか。クトズはこの諸侯らに協力を要請する。諸侯達はモンゴルとマムルーク政権のどちらに味方しようか口論したすえ、中立という態度を示すことになる。しかし、中立とはいってもマムルーク政権に対して友好的な中立であり領内の通過や、通過の際に食糧などの提供をすることを約束した。こうして後顧の憂いはなくなった。
1260年8月。マムルーク軍団は十字軍諸侯の領土であるアッカに入城し、休息をとる。砂漠地帯が広がる灼熱の真夏のシリアで休息がとれたのは幸運であった。
休養の後、マムルーク軍団はシリアのモンゴル軍の拠点であるダマスカスにむけて進撃を開始する。土着のキリスト教徒たちは、イスラム軍を蹴散らすモンゴル軍に対して協力的であり、シリアにおけるモンゴル軍の支配体制はある程度確立していた。クトズはアッカから南東にくだりナザレ(イエスの生地)を通過、そこから東へ進みヨルダン河を渡河し、北上してダマスカスへと進撃しようと計画していた。十字軍諸国の領土を自由に行き来できるという確約を得たことにより、そのことを知らないモンゴル軍の陣地を迂回して進軍することができた。
●決戦!! アイン・ジャルート●
マムルーク軍団はキトブカがモンゴル軍を率いて進出してきているのを知り、ナザレの南方十キロの地点にあるアイン・ジャルートを決戦の地に選んだ。マムルーク軍団はバイバルスの提案によりクトズ率いる本隊とバイバルス率いる別働隊にわけられた。
キトブカ率いるモンゴル軍は三万から六万。遠征軍としてつれてきた主力部隊はフラグとともにアゼルバイジャンへと去っていった。しかしながらモンゴル騎馬軍団はモンゴル帝国成立のころより劣勢をもって多勢の敵を伏せてきたのだ。1260年、9月3日。キトブカ率いるモンゴル軍はマムルーク軍団と遭遇。モンゴル軍は攻撃に移り、クトズ率いるマムルーク軍団と激突する。クトズはキトブカの猛攻におされ浮き足だって後退をはじめる。キトブカはこれを追撃する。勝利を確信するキトブカ・・・。
しかし、キトブカの背後よりマムルーク軍団がもう一軍出現した。バイバルスが率いていた別働隊である。バイバルスはハロド河の渓谷を利用して部隊を伏せ、チャンスを待っていたのである。バイバルスの伏兵がキトブカのモンゴル軍に対して騎射部隊を先頭に密集形態で猛攻を加えるとクトズは軍を反転させ、モンゴル軍に襲い掛かる。モンゴル軍に対して敵わぬと見て撤退を始めたのはカモフラージュだったのだ。
戦いは乱戦となった。クトズは鎧を脱ぎ捨てると「くたばれ!!」と叫んで敵陣に切り込んでいった。包囲されたモンゴル軍は敗北を喫し、キトブカは捕らえられてしまう。
負けたとみせかけて敵の追撃をさそい、突出してきたところを伏兵によって包囲、騎射による攻撃から格闘戦に持ち込んでいくのはまさにモンゴルの戦術であった。まさか西の果てに自分達と同じ戦術、戦闘技術(騎射など)を持っている敵がいるとは夢にも思わなかっただろう。マムルークもモンゴルと同じトルコ人であり、もとは遊牧民族であった。モンゴルを打ち破ったのはモンゴルといっても過言ではないだろう。
バイバルスにしてみれば幼いときに自分の故郷で暴れ周り、自らを奴隷として中東に送った張本人であるモンゴルに復讐をする形となった。どこまで彼にその思いがあったかはわからないが・・・。
イル・ハン国(フラグが建国した国)の史書によると、クトズは捕虜として引き出されてきたキトブカに対し
「あまたの国を滅ぼしたあげく、ついに、わが罠にかかったな」
とクトズが述べるとキトブカは
「生を受けてこのかた、わしはハンの僕であった。なんじらのように主を殺す輩とは、人が違うわ」
いいも終わらずキトブカの首は地に落ちた・・・。
モンゴルもチンギスハンがモンゴル高原の諸部族を統一するまでは部下が主人を殺すことなど日常茶飯事であった。キトブカの年齢は何歳かよくわからないが、十字軍史の権威であるルネ・グルッセはキトブカを老将軍と述べている。アイン・ジャルートの戦いは1260年でチンギスハンがモンゴル高原を統一したのは1206年なのでモンゴルが統一されてから、ゆうに54年の月日が流れている。キトブカが物心ついたころには、すでにモンゴル高原は統一され、チンギスの定めたヤサ(法律)のもとにより、秩序が生まれ主人殺しなどそうはなかったであろう。ましてやモンゴルの支配者であるハンに対して反抗するなど考えも及ばぬことであっただろう。マムルーク政権も政権が確立し、安定していけば、主人殺し、ましてや国の元首を殺そうなどという考えはなくなっていくように思われる・・・。だが、マムルーク政権はバイバルスの治世からカラウーンの治世後の短い間だけ主君殺しが消えただけで、その後、主君を廃したり、暗殺したりすることが日常茶飯事で行われるようになる。キトブカのこの言葉は、ある意味でマムルーク政権の確信をついており、将来への予言であったのかもしれない。
ともあれ、クトズとバイバルスによって誕生したマムルーク連合軍はモンゴルのシリア方面軍の主力を打ち破った。マムルーク軍は当初の目的通りにヨルダン河を渡り、北上してダマスカスを陥落させた。クトズはモンゴル軍を追撃してダマスカスにはいるとアイユーブ朝との関係にかかわりなく、自分に忠誠を誓うシリアの部将達の地位を保証した。ただし、バニヤスの太守でアイユーブ朝王族のアルマリク・アッサイードのみは、モンゴル軍に協力して戦ったので斬首とした。モンゴル軍は司令官を失い総崩れとなっていた。バイバルスは軍を率いてアレッポを奪還することに成功する。モンゴル軍はユーフラテス河を渡り東方へと敗走していった。
結局、この戦いにおいてマムルーク軍団はモンゴルを撃退するだけにとどまらず、今までアイユーブ朝のスルタン・ナセルとその下の諸侯達が支配していたシリアの地を手にいれる形となった。こうして、マムルーク政権はサラディンの築いたアイユーブ朝の頃のように、シリア・エジプトを領する国家となったのである。
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