スルタン・バイバルス |
●違約とクーデタ●
マムルーク政権はモンゴル軍をシリアの地から追放することに成功した。マムルーク軍団の勝利の報告はあっという間に広がり、イスラム世界を歓喜させた。今まで乱暴狼藉を働きカイロの市民からは嫌悪の目で見られていたマムルーク軍団だがここに来て救世主となったのである。思えばイスラム世界は中央アジアの雄、ホラズムを滅ぼされたのをかわきりにイランのイスマイール派、バグダットのカリフ、シリア諸都市とモンゴル軍の脅威の前に次々と滅ぼされていった。まさにイスラムは風前の灯となっていたわけである。それがここに来て大勝利を治めるにいたった。サーリフの狙いどうりに彼の育てたマムルーク達は、モンゴルを打ち倒しエジプトそしてシリアを守ってくれた。
クトズはモンゴルによって荒廃したシリアに秩序を取り戻させるとエジプトへと凱旋した。シリアの東端に位置するアレッポを落としたバイバルスもクトズに合流し、エジプトに凱旋する。しかし、ここで問題が生じた。クトズはシリアでのモンゴルとの戦いの前に、バイバルスが勝利の暁にはアレッポ太守の地位をいただきたいと要求してきたのでそれを承諾していた。しかし、クトズは論功行賞の際、バイバルスとの約束を守らず、彼にアレッポ太守の地位を与えなかった。バイバルスは自ら軍を率いてアレッポをモンゴルの手から取り返したというのに・・・。バイバルスにしてみればアレッポはシリア東端の街で、ダマスカスに次ぐシリア第二の都市である。ここを拠点にモンゴルと戦いシリアを守り、さもすればユーフラテス河をこえモンゴル領に食い込んでいこうと考えていたのかもしれない。
しかし、クトズにも言い分はある、モンゴルという脅威がなかったら、バイバルスはエジプトにいる自分に対して敵対を続けていたであろう男である。どこまで信用できるかわからない。さらにアレッポはモンゴルとの最前線であるが、同時にカイロからもっとも離れたところに位置するシリア第二の都市である。そこで力を蓄えいつの日にかシリアを席捲し、自分に対して反旗を翻すとも限らない。しかも、このアイン・ジャルートの戦いにてバイバルスの声望は高くなっている。アレッポを解放したバイバルスにアレッポ市民は好感情を抱いているはずである・・・。それにバイバルスは自分の部下になのかどうかも定かではない、あくまで今回は挙国一致の形をとるためスルタンである自分の下についているが、もともとは同盟という関係であった。クトズは虎を野に放つ勇気はなかった。放ってしまってからでは遅いのである・・・。
アイン・ジャルートの戦いから五十日がすぎていた。エジプトのナイル河のデルタに至るまであと一日のところに位置するサーリヒィーヤ付近まで、マムルーク軍団はやってきていた。その地で狩りを楽しむクトズに、バイバルスはモンゴル軍捕虜の中から一人の美女をもらいたいと申し出た。クトズがこれを了承すると、謝意を示すためにクトズの手に接吻するふりをして、クトズがその手を差しのべると、バイバルスはその手を固く握って離さず剣を握って従臣とともに瞬時にしてクトズは刺殺されてしまう。
●誕生!! 勝利王●
バイバルスはクトズを殺すとスルタンとなり、マリク・アッザーヒル(勝利の王)を称した。マムルーク朝第五代のスルタンである。このとき、バイバルス32歳。彼はエジプトに凱旋すると市民に歓迎された。彼がモンゴルの脅威を取り除いたことを皆、しっているのだ。よってモンゴル戦の立役者であった彼はスルタンであるクトズを殺害した罪をとわれることはなかった。バフリー・マムルーク政権の誕生である。アイバクやクトズの治世もバフリー・マムルーク朝と呼ばれるが、バフリー・マムルークという言葉に従うのならばバフリー・マムルーク朝はバフリー・マムルークの中で初めてバイバルスがスルタンに即位した段階・・・つまり、この時からはじまったのである。アイバクやクトズも政権の安定、国造りに励んだがバイバルスの治世によりマムルーク政権の基礎が完成したといってもいいだろう。ゆえに、バフリー・マムルーク朝とよばれるのだろう。
軍の中核はバイバルスに絶対忠誠を誓うバフリー・マムルークである。かつてシリアでの放浪時代に仲間を決して見捨てることのなかったバイバルスだからこそバフリは忠誠を誓った。さらにバイバルスはクトズの属したアイバク系のマムルークやその他のマムルークを懐柔して傘下におき軍事力が低下しないように軍を再編成することに成功した。さらに、クトズがモンゴル戦の戦費としてかけていた重税を廃止し民心を買った。このとき、人々はバイバルスの戦闘における戦略眼や武勇は知っていても彼が優れた政治家でもあることをまだ知らなかった。
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