帰ってきたモンゴル |
●フラグの反撃●
クーデターによりスルタンの位についたバイバルス。エジプト・シリアの地をマムルーク朝の領域に加えることに成功したものの、まだ油断はならなかった。なぜならアイン・ジャルートから始まるシリアでのモンゴル軍との戦闘はあくまで、モンゴルの先遣隊を撃破したにすぎなかったからである。
モンゴル軍の中東方面軍の司令官であるフラグは兄・モンケの訃報をきき、シリアからモンゴル高原へと向かって移動をはじめた。しかし、フラグの弟でああり今では政敵となってしまったアリク・ブカの手によりフラグは中央アジアをぬけることができず、結局、カスピ海の南の地、アゼルバイジャンにてモンケの次の大ハーンに、フビライがなるのかアリク・ブカがなるのかの趨勢を指をくわえてみているしかなかったのである。そのフラグの元に先遣隊を率いさせエジプト攻略の任を与えておいたキトブカの死が伝えられ、エジプト軍が矢継ぎ早にシリアのモンゴルに占領された都市を陥落させ、ついにはシリアからモンゴル勢を駆逐してしまったという報がはいる。
もちろんフラグはエジプト軍の反抗に対して反撃するつもりであった。しかし、彼がモンケの命で率いてきた中東方面攻略軍はモンゴル帝国内の各王家から兵を集めたもので、フラグの私兵ばかりではない。モンケの死によって各王家から集められた兵達はそれぞれの王国へと帰っていってしまっていた。フラグはエジプト軍との戦いは自らの兵のみで戦わねばならなかったのである。
フラグはアゼルバイジャンのタブリースに残った・・・、結局、フラグは残ったこの地を都にして自らの国イル=ハン国(フラグ=ウルス)を建てることになる。フラグは軍の編成にとりかかるかたわら、イラク方面に駐留していた一万の軍に南下を命じ、シリア攻撃にあたらせた。フラグにしてみればマムルーク政権の本隊がエジプトのカイロにある今、シリアを急襲しておこうという腹積もりだったのだろう。
1260年12月。モンゴル軍一万はシリア右端の要衝・アレッポの城外に迫った。アレッポは本来ならバイバルスが太守として赴任する地であった。しかし、クトズの違約により、彼はアレッポ太守になれなかった。もっとも、バイバルスはスルタンになってしまったのだが。それはともかくバイバルスの予感どうり、モンゴルは再びシリアにやってきてしまった。しかも、バイバルスはこの地から遠く離れたエジプトのカイロにいる・・・。アレッポの守備隊はホムスまで撤退した、ホムスにはハマの守備隊も合流し、この三都市の守備軍は共同してモンゴルにあたることにした。守備隊は合計六千と兵力でモンゴル軍に劣っている。モンゴル軍にしてみれば数でまさっているのならば、アイン・ジャルートのようなことにはならないだろう・・・。
しかし、ホムスの平原での戦いにおいてモンゴル軍は敗退した。アイン・ジャルートの勝利はマムルーク朝軍に勢いを与えたばかりではなく、モンゴルは無敵ではないということを知らしめる効果があった。モンゴルはその戦闘力の高さもあるが、無敵という伝説と、反抗したものを徹底的に責め滅ぼすという「宣伝」によって、対戦相手の士気を挫き、戦闘を有利にすすめていたという面もある。しかし、その伝説は崩れ去っていた。さらにこの戦いでモンゴルを打ち破った将兵の中にはバイバルスらに従いアイン・ジャルートでの戦い、それ以降のシリアのモンゴル掃討戦に参加した者も大勢いたであろうと思われる。
さらに平原での戦いの勝利である。マムルーク朝軍はモンゴル騎兵と同じ戦闘力・戦術をもつマムルーク騎兵をシリア東端の地に多数配置しておいたのだろう。さらに、バイバルスはアレッポはモンゴルの脅威にさらされる最前線とみていたから、有能な指揮官を赴任させていたのだろう。
●バリード網の設置●
モンゴルの報復軍をとりあえず蹴散らすことに成功したバイバルス(もっとも、バイバルスが指揮をとったわけではないが)であったが、フラグはやはりシリア奪還をあきらめてはおらず、今後、本腰をいれて進撃してくることは十二分に考えられた。そこで、バイバルスはバリード網の設立に着手する。
マムルーク朝の首都はエジプトのカイロである。そして第二の都市はシリアの第一の都市・ダマスカスである。以前にも述べたが、シリアは交通の要衝でありエジプト防衛の拠点である。そこで、バイバルスは敵情を知り軍を迅速に動かせるようにするためにカイロからダマスカスへの交通網の整備に着手した。カイロ・ダマスカスは直線で七百キロメートルである。途中には宿駅(長距離の移動をするため疲れた馬から元気な馬に乗り換えるるところ。また、使者自体が交代したりもしたようである)をもうけ、伝書鳩と馬による連絡網をつくりあげた。馬での移動の場合、カイロ・ダマスカス間は三日で移動ができた。なお、馬に関しては遊牧民に供出をもとめ、協力者にはアミール(将軍・司令官)位やイクター(領土)を与え、遊牧民らも体制内にとりこんでいった。この連絡網は最終的にはエジプト・シリア全土に広がっていくこととなる。
バリード網の発送はモンゴルがつくりあげたジャムチと同じである。モンゴル帝国もその広大な領域を支配するために駅伝制度を充実させた。バイバルスももとはモンゴルと同じ遊牧民であるから、交通網の整備に目がいったのかもしれない。また、交通網の整備は軍事関係だけでなく一般の通商に関しても大きな利をもたらしたのではないだろうか。
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