カリフ推戴 |
イスラム教の教主であるカリフ・・・。モンゴル軍の侵攻によりカリフ・ムスターシムが治めるアッバース朝は滅ぼされ、カリフ自身もフラグの手により処刑されてしまった。バイバルスがスルタンに即位したとき、イスラム世界にはカリフは存在していなかったのである。
エジプト・マムルーク政権はアイバクの時代に、アッバース朝カリフより、正当なイスラム国家であることを認められていた。奴隷出身であり、エジプトの民ではないマムルーク達にとって、カリフから正当な政権のお墨付きを頂くことは、領民を統治していくうえで非常に有益なことであった。
1261年6月。スルタン・バイバルスのもとにムスターシムの叔父であるアフマドが訪れた。彼はモンゴルの侵攻の難をかわし、一族の者とともに、いまやイスラム世界の中心的国家となったマムルーク朝の保護下にはいるためにやってきたのである。もっとも、当時のイスラム国家はマムルーク朝を除けば北アフリカに割拠するハフス朝、サイヤーン朝、マリーン朝、そしてスペインの南端に位置するナスル朝のみであった。
バイバルスはアフマドを最高の栄誉をもって迎えた。アフマドはエジプトの地でカリフとなったのである。そしてバイバルスはアフマドを伴いカイロの市街へとでると、アフマドはアッバース家を象徴する黒のターバンと紫のガウンを与えられた。この行為はバイバルスをカリフの代行者(スルタン)であることをカリフが認めたということである。こうしてエジプトのマムルーク政権は名実ともに正当なるイスラム国家として認められたのである。バイバルスがあえて市街にでてきてやったのは、やはり、市民へアピールするためだったのだろう。
この後、バイバルスは思いもかけない行動をとる。なんとバイバルスはかつてアッバース朝の首都であったバグダートをモンゴルの手から取り戻し、その地に再びカリフ政権を成立させようとアフマドにもちかけた。そして三百騎の騎兵をアフマドにつけバグダートの奪回にむかわせた。しかし、不可解なのは僅か三百騎の騎兵のみでバグダート奪還を決行させたことである。いうまでもなく、アフマドはモンゴル軍の襲撃を迎撃することができず死亡してしまう。
アフマドの死によってハーキムがカリフとして擁立された。ハーキムはカイロ市民との接触を禁じられ、宮殿の中で暮らすことを余儀なくされた。そしてハーキム以降のカリフも皆、宮殿の中で半ば幽閉される形となった。まさにカリフはマムルーク政権の正当性を示すためだけの生きたオブジェでしかなかったのである。バイバルスや以降のスルタン達はカリフが市民と接触することで、自分達、マムルークを追い出してカリフの国をつくろうという動きが生まれるのを恐れたのであろう。カリフとよそ者であるマムルークでは、多くの市民はカリフの側にたつだろうし、果たしてカリフに対して刃をむけてよいものだろうか? 例えクーデタを鎮圧したとしても、カリフから代行者の承認を得ることができなくなってしまうし、領民の統治にも問題をきたすことになるだろう。結局のところ飼い殺しにするのが一番安全という結論にいたったのである。
ともあれ、カリフ推戴によってマムルーク政権は正当性をもち、エジプトはイスラム世界の中心地となった。1517年に、マムルーク朝がオスマン・トルコに滅ぼされるまでエジプトにカリフは存在し続けるのである。
|
|